番外編 過ぎ去ったあの日から

第56話.1.新たな風が吹くその瞬間に

「よっこらしょっと」

 ボロボロのボストンバックを持ち、サン=ジェルマン=アン=レー城を背にして、セーヌ川からながれる風に、その身を任せるように遠くを見つめている青年がいた。

 若干16歳のその若者は、今、自分が降り立つこの地の、ほぼ反対側の日本からはるばるやってきた。


 その若き青年の名は、三浦政樹みうら まさき


「さぁてと、本当にこっちで良かったんだよな?」

 地図を大きく広げ、キョロキョロとあたりを見渡しながら、神妙な顔つきをしてじっと地図に目を落とす。

「ん-、参ったな。俺、まともにフランス語なんて読めねぇし。英語だったら……。む、無理か! 英語もからっきし駄目だったもんな。えーと、ここがサン=ジェルマン=アン=レー城だから、多分この辺だと思うんだけどな」


 頭をガシガシとかきむしり、その場に座り込んだ。そして目に映り込むその景色を眺め

「これがあのセーヌ川か。もっと大きな川だと思っていたんだけど、なんだ普通の川じゃねぇか。しかもまぁ、なんだ、緑が多いよな。木々が多いっていう事はいいことだ。この街、地図を見る限りじゃ、それなりに都会的な所だと思ってたけど、ほんと静かだよな。もっとこうなんだ。人がうじゃうじゃいるような気がしてたんだけど、あんまり人の姿みねぇし。こういうのって住宅街っていうんだろうな。のどかだなぁ」


 て、感心している場合じゃないことくらい、こんな俺でも十分にわかっている。

 早く目的地に行かないといけない。

 俺はこのフランスに観光で来ているわけじゃない。

 はるばる日本からこのフランスに渡った理由。それは、俺はパティシエになるために、ある店の扉をくぐらなければいけないんだ。


 その店の名は『レーヌ・クロード』


 その店の名の由来? というか意味だけは調べてきた。

 フランス、ヨーロッパでは有名なプラムの名だということだ。

 プラムの種類の中でもヨーロッパ地方では高級品に入るプラム。そのプラムの名を店の名前にしているところからも、すげぇ名の知れた店に違いないと俺は確信している。


 華やかなウインドウに並ぶ宝石のような菓子たち。その菓子を多くの人たちが買いにその店にやってくる。

 俺はその店の厨房で、華やかな菓子たちを作りあげる。

 パティシエになることは俺の夢だ。いや、目標だ。


 世界一のパティシエになることが、俺の野望だ。野望とは少々荒い言葉だが、それくらいの意気込みは持っている。

 日本にいてもパティシエになることは出来る。だけど、世界一になるためには、日本にいては駄目だ。フランスで修業をして、腕を磨き最高位のパティシエになるんだ。

 だから俺は親の反対も聞かず、独断でこのフランスにやってきた。

 絶対、俺は世界一のパティシエになる。


 なってやる!


 フランスのパリを中心にして菓子店、いわばパティスリーを調べ、辞書を片手につたないフランス語で、俺の熱意を込めた言葉で修行をしたいと、手紙を書きいろんな店に送った。

 だが、現実は菓子の様に甘くはなかった。

 手紙を送って1か月が過ぎ、2か月が過ぎてもどこからも返事の手紙はなかった。

 俺のあのフランス語の文章が悪かったのか?


 まぁ、もともと英語すら出来の悪い俺だから、フランス語なんて到底まともに書ける訳でも無かった。

 それでも意味は通じると俺は思っていた。熱意は感じてくれると思っていた。

 だけど、何も変化は俺の前には現れなかった。


 やっぱダメか。

 そう諦めかけていた時、ふとガイドブックに載っていた店が目に入った。

『レーヌ・クロード』

 ガイドブックには店の写真はなかった。

 紹介文には「写真撮影は一切お断りされた店」と書かれていた。

 だがその記事を読んでいると勝手にイメージが沸き始めた。


 レーヌ・クロード。その意味を調べた。クロード王妃の名のついたプラム。

 その価値観は高く、何処でも簡単に手に入る代物ではない物らしい。

 しかも、その店で作られる菓子は、店の名であるレーヌ・クロード同様、誰しもが気軽に購入できる菓子ではないらしい。

 王室の御用達でもあり、店主オーナーでもあるパティシエの名も明かされていない。

 謎に包まれた部分は多かったが、その記者が味わった菓子の感想の一言に。


「Pays de reve ペイドゥリーヴ(夢の国)へいざなう菓子たち」とあった。

 夢の国に連れていかれそうになるくらい、その菓子たちは記者の心を引き込んだと書かれていた。


 その言葉に俺の心は揺れた。


 そして、唯一の救いとなった文面が一行あった。

 オーナーの妻が日本人である。と、書かれた一文だった。

 ならば、俺は賭けた。フランス語なんか使わず、俺の熱意とこの想いを日本語でそのまま伝えた。


 ダメもとだった。


 でも奇跡が起きた。俺宛に返事が来た。

『レーヌ・クロード』から。

 綺麗な日本語の字だった。


「あなたの熱意は十分に伝わりました。もし本当にその熱意があるのなら、もし、迷いがないのなら。一度フランスに来なさい。そして実際にこの地の景色と、空気。そして命の源の水を自分自身で感じなさい」

 そして、最後の一文に


「この扉を開けるのも、閉じるのも。それはあなた次第です」


 この手紙を読んだその瞬間。俺の心はすでにフランスに飛んでいた。


 そう、「この扉を開けるのも、閉じるのも。それはあなた次第です」この一文は俺の迷いを、いや道先に光をあててくれた。


 すぐさま俺は親に直談判をした。

 まったく相手にされなかった……。

 手紙へんしんも見せた。

「嘘じゃねぇだろ! 俺、真剣なんだ。真面目な俺の将来の事なんだ」

 何度も頼んだ。

 最後には親が折れた? いや、あきれて話もしなくなった。


 仕方ねぇ、こうなったら自力でフランスに行こう。

 そう決意した俺はバイトを始めた。フランスへの旅費を費やすために。

 半年かかった。

 ようやく片道分の旅費がくめん出来た。

「そうさ、片道分さえあれば十分。俺は一人前になるまで、日本には戻る気なんかねぇし」


 高校? もうそんなもんこの俺の中には影の形もなかった。

 退学届けを出して、担任に呼ばれ、親に怒られ。

 しまいには「勘当だ!」

 の、一言であっさりと親とはけりが付いた。


 出発の日、いくら勘当だと言われたにせよ。今まで俺を育ててくれた恩がある。

 黙っていなくなるのはさすがに忍び難かった。

 だから

「行ってきます!」と、だけ置き手紙を書いて家を出てきた。

 ま、長々書いたところで何かが変わるわけでもねぇ事は、わかってたから簡単に書いてやった。


 と、ここまでの俺の経緯いきさつはこれくらいにしてと。

 とにかく目的地に行かないといけない。

 為せば成る! 確かに成せばなった。

 身振り手振りで、フランス語が通じなくても何とか俺は『レーヌ・クロード』にたどり着くことが出来た。


 そしてその光景に愕然とする。

「そ、想像していた店とは違う! ここ本当に『レーヌ・クロード』なのか?」

 きらびやかな店構えを期待していた、俺の目に映るその店の姿は……。


 ほんとうに小さな、可愛らしい店だった。


「だ、大丈夫なのか? 俺もしかして騙されてなんかいないよな?」


 呆然と立ちすくんでいた俺の後ろから、肩に手をそっとあてがわれ

「Bonjour la jeunesse japonaise(こんにちは 日本の青年)」と声をかけられた。


 振り返ると、そこには優しく、そしてとても深いブルーの瞳を輝かせた男性がいた。

 その人こそ、この店のオーナー兼パティシエ。

 イレール・ミィシェーレ。

 彼との出会いは今始まった。


 そして今、俺に……新たな風が吹き始めた瞬間でもあった。


「Pâtissier Masaki Miura」「Cafe Canelé」(パティシエ・三浦政樹 カフェ・カヌレ)

 カフェ・カヌレのパティシェ兼オーナー。


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