届かない願い 前篇

第8話 Prologue プロローグ

 最愛の人との別れ。


 別れたくはない。別れるなんて、想像もしていなかった。でも、現実は待ってはくれない。

 その最愛の人は、彼女にある言葉を残していなくなった。ただ一方的に。

 時間が経過するごとに別れるその時がやってくる。どんなに強く別れたくないと思っても、運命は二人を引き裂く。たとえどんなに愛した人であっても……。


 あの時、告白した返事を恵美はしてくれた。でもその返事は、納得のいく答えではなかった。恵美の過去にある悲しい想いが、その答えを物語っていた。


 恵美と一つ屋根の下での生活も2ヶ月が過ぎた。

 三浦氏との間に小さな壁を作っていた僕は彼の妻、ミリッツァの振舞いにより、綻びも少しづつほどけていた。

 恵美と共にある新たな日常もゆっくりと動き出していた。


 恵美にとって忘れる事の出来ない日。


 だが彼女は、前の晩9時を過ぎても家には帰って来なかった。胸騒ぎが治まらない僕は夜、駅に恵美を探しに向かった。


 なぜその日が、恵美にとって忘れられない日なのか、その答えを知っているかの様に、先生は、行先も告げづに僕を連れ出す。

 その地で僕は、恵美の過去にある悲しみと苦しさを知ってしまった。


 そして、僕にとっても、忘れる事の出来ない日になった。



 「おい結城 もうそっちはいいからこっちを手伝ってくれ」

 「はい、今行きます」

 パテシエの仕事は朝がとてつも早い。

 午前5時、最初のベーススポンジが焼きあがる。

 オーブを開けると、熱い空気が僕の顔を包み込む。

 熱せられた鉄板をオーブンから引き上げると、甘く優しい香りが焼きたてのスポンジから立ちのぼる。

 

 この時間はオーブンラッシュだ。


 ここ「カヌレ」の厨房には、大型のオーブンが3台ある。

 上段、上中段、下中段、下段と4つの室内に洋菓子たちが命を吹き込まれている。

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