第9話 1.新たな日常

 僕が、三浦恵美と一つ屋根の下で生活をともにして二か月が過ぎた。

 まだ、太陽が光をなげかけるときは暑さを感じるが、日がかげるころになるとすぅーと、頬が冷たさを感じるようになった。


 彼女、「恵美」は日曜の晴れた夕方、だれに何も言わずそれが当たり前のかのように、あの河川敷でアルトサックを奏でに行っている。それは、あの家では触れてはいけないかのように、彼女の両親も静かに見守っている。


 三浦氏と彼の妻であるミリッツァは、両親を事故で亡くし生活環境が一変した僕を彼女「恵美」と同様にやさしく静かに見守ってくれている。でも、僕は政樹さんとはなんとなく壁をつくり、ぎこちない日々を送っていた。だがその壁をつくっていたのは自分であることに気が付かせてくれたのは、彼の妻ミリッツァだった。


 彼女は、僕に対しなんのためらいもなく、自分の息子であるかのように接してくれている。

 彼女本来の性格なのだろう。

 気さくなミリッツァは、僕に色々な話をしてくれている。そんな彼女だからだろう、僕も気を使うことはなかった。


 ある日の朝、僕は少し早起きをした。それは前の晩、ミリッツァからの頼まれごとだった。


 「ねー結城、明日の朝食あなたが作ってくれない? 明日のオーダーちょっと多いの、多分朝食作るまで手が回らないと思うの」

 「え、あ、うん、いいですよ」


 「あなた料理得意でしょ」

 「あなたのお母さんから訊いているわよ」

 「え、それほどでもないですけど」

 「んふふ」

 ミリッツァは軽く微笑んだ。


 「本当はエミーにお願いしたいんだけどね」


 彼女は恵美をエミーと呼んでいる。恵美、エミー、彼女らしい呼び方だ。


 「エミー、朝弱いのよ。低血圧って言うの? 起こす時間があったら朝食出来ちゃいそうだもんね」

 彼女は、声を低くしてそうと僕に耳打ちした。


 「それにあの子、料理音痴だしね。誰に似たのかしらねぇ」

彼女は苦笑しながら

 「結城お願いね」と言って寝室へ向かった。



 「ふぁ 眠い、5時半かぁ、さーてやるか」

 重い体に喝を入れて、僕は取りかかった。まずは、玉葱を薄くスライスし細切りにしたベーコンを鍋に入れ弱火で炒める。


ベーコンからの油が溶け出し、玉葱がしんなりとしたら沸かしておいたお湯を鍋に注ぎ入れ、コンソメとブイヨンを母さんから教わった黄金比率で溶け込ませる。


さらに弱火にして灰汁を静かに取り除く。沸騰は厳禁だ。


 卵をボールに割り入れ、少量のコンスターチを溶け込ませたミルクを入れ解きほぐす。この時、卵はよく攪拌してすべてが一体化するのがコツ。


レタスを手でちぎりサラダボールに入れ、その上にクレソンをまぶす。


 程よく黄金色をしたコンソメスープに塩、胡椒で味を整える。


 フライパンに、厚切りのベーコンを入れじっくりと火を掛ける。

 6時30分、三浦家の朝食はきっちり7時からだ。

 もう一つのフライパンにバターを入れ、用意していた卵を流し込む。火は強火、フライパンの淵から固まってきたところで、外から内へ円を書くように卵をまわしていく。

 フライパンの柄を攫み、トントンと振動を与えながら手前に寄せて成型をする。これを3回行い3つの皿にベーコンと一緒に盛り付けた。

 そして目玉焼きを一つ焼いた。

 ベーコンから出た油をオニオンドレッシングに併せてサラダとともに添えた。


 「わぁ いい匂い」

 ミリッツァが焼きたてのフランスパンを2本持ってやってきた。


 「結城すごいじゃない。おいしそう」

 「大したことないですよ」

 「うんん、私は合格ね。私バケット切るわ」

 「お願いします」


 ミリッツァは、ウッドトレーにバケットを置き、手慣れた手つきでバケットを切りながら、ふと「結城、珈琲淹れてくれる」ミリッツァは微笑みながら僕に言った。


 「はい」と何も考えずに受け答えた。

 「それとね、あのひと珈琲にはちょっとうるさいのよ。あなたの淹れる珈琲、気に入ってくれるといいわね。あら、緊張する?」


 「いえ、大丈夫です」とは言うものの、僕の淹れる珈琲を美味しいと言ってくれたのは殆んど身内にすぎない。


彼、三浦氏は味に関しては物凄く厳しそうだ。まして、珈琲にはうるさいと聞くと厳しさは掛ける二乗になって僕にのしかかる。もう後には引けない。


 「いつも通り、いつも通り」僕は意を決して、取りかかった。


 ミリッツァはバケットを切り終わると、出来上がった料理をテーブルへ運んでいた。


 お湯が沸き、落ち着いたところで、僕は静かに挽いた珈琲豆へ注いだ。軽い湯気と共に甘く香り高い珈琲の香りがダイニングを覆い尽くす。


 ミリッツァはその香りを感じると、微笑みながら僕を見つめていた。

一通りドリッップが終わり、ポットを保温器に置いた。


 「ねーミリッツァ」

 「なぁに」

 「フランスじゃ珈琲はエスプレッソじゃないの?」

 「あら、よく知ってるわね」

 「フランスでも、私の育ったのはずぅと田舎の方なの、そこではドリップで入れる珈琲が普通で、私もエスプレッソを知ったのは都会に出てからよ」


 「ふぅん、そうなんだ」

 「それに、あの人はエスプレッソよりallonge(アロンジェ薄くした)の方が好きなのよ」


 「どうして?」

 「ふふっ、それはあなたが訊いてみたら?」

 ドアが開き、三浦氏が厨房から上がってきた。


 彼は、僕を見て「おはよう」と言ってテーブルの席に就いた。

 ミリッツァは、僕の入れた珈琲をカップに注ぎ、彼の前に静かに置いた。

 カップを持ち彼は、軽く口に含んだ。


 「ん、美味しい!」

今日は、結城が用意をしてくれたのよ。よかったわね結城」

 ドキドキしていた。

 「本当ですか?」

 「僕は、仕事と好きなことには嘘はつかないよ」

 彼は、笑みを浮かべていたが、目は真剣だった。


なんだか、政樹さんに少し認めてもらったような気がしてうれしかった。


 彼は、僕の作った朝食をたいらげると「結城、お前物つくりは好きか?」そう訊いてきた。

 迷わず「はい」と返事をして、僕は思い切って政樹さんに言った。


 「あの、あの時食べた焼き菓子、カヌレの作り方教えてください」

 僕は、どやされるかと思い少し小さくなっていた。

 すると、彼はミリッツァと顔を見合わせて、豪快に笑った。


 「そうか、また大きく出たな。うちの看板をか。厳しいぞ」

 「はい、頑張ります」

 彼は嬉しそうに僕の頭をこずった。


 「よかったわ」

 ミリッツァは、微笑みながら僕を見つめていた。

 「でも、結城は学業優先よ」


 「そうだな、初めは少しずつな。進級できなかったら大変だしな」

 「そんなぁ僕そんなに成績悪くないですよ」

 なぜか政樹さんを身近に感じている自分に気がついた。


また彼も嬉しそうに見えた。こうして僕は、学校の休みの日、主に土曜と日曜の早朝の仕事を手伝うことになった。


でも僕とまだ見えない、重い壁を感じる人がもう一人いる。

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