最終話 第80話 3青き空に浮かぶ白い雲
サン=ジェルマン=アン=レー城(現国立考古学博物館)を背にしてゆっくりと流れゆく川の動きを静に目にしながら、ふんわりと彼の体にまとう初夏の風。
初夏とは言え、どことなくひんやりとした風だ。
「ようやく来た。うん、来たんだよな。父さん。母さん」
彼は、ぐっとこぶしを握り締め、目頭に浮かぶ涙をぬぐい、最初の目的地へとその一歩をふみ出した。
「今なんかもう、店の跡形もねぇぞ。それこそ聞いた話だとショッピングモールが建っているみてぇだ。俺もずいぶんと行っていねぇから分かんねぇけどな」
「そうかぁ、でも行ってみたいんです。父さんと正樹さんが出会ったその店の場所に」
「なるほどな」正樹さんはニヤリとしながら、ペンをとりメモ用紙にさらさらと簡単な地図を書き出し僕に手渡した。
「サン=ジェルマン=アン=レー城。ここが目印だ。そこからは歩いていけ。ゆっくりとな。多分、その間にお前なら何かを感じるかもしれぇな。結城」
「わかりました。ありがとうございます」
その手わたされたメモを見つめ、どうしてもその場所に来たかった。そう、『レーヌ・クロード』親たちが交わした青春の日々。その時を過ごした場所にどうしても行ってみたかった。
全ての始まりはこの『レーヌ・クロード』から始まったのだ。
もし、この店が存在していなければ、僕も……恵美もこの世には存在していなかったのかもしれない。
今は儀父となった正樹さんが自分の人生を賭け、道を切り開いた場所。
通りを歩き街並みを目にしながら、一歩また一歩その目的地に近づく。
華やかさと、静かな佇まいが混在しているかのような感じがする街並み。そしてすぐに華やかさと言うべきなんだろうか、賑わいが途絶えたとかのような感じがした。
それにしても緑が多い。もっとなんだろうか、東京の街並みのような感覚を持っていたが、いきなり別世界に足を踏み入れたような静けさが一歩その境界線を越えた時、僕の感覚をマヒさせた。
それでもなんだろうか、人の、多くの人の行きかう感じが向かう先から押し寄せてくるような気がする。
だが日本のように混雑しているような感じではない。
路上の標識には『マーケッド』と書かれた看板が表示されていた。
多分、正樹さんや、父さんたちがいたころにはなかったんだろうそうすれば、今よりももっと静かな佇まいがこの場所には存在していたんだという思いが募る。
そんな時の流れを感じさせる風景を目にしながら、今はもうその佇まいは見る型もないが、確かにここにあの『レーヌ・クロード』が存在していたんだと実感できた。
それは不思議な感覚だった。
始めてきたのに、初めてじゃないとても懐かしい想いが湧き出てくるかのような感覚。
「うん、そうだここだ」
今僕は、僕らの原点にようやくたどり着いたような感じがした。
ようやく踏み切れる。
パティシエの道に進もうとした時、父さんの会社を引き継いだ宮村さんから、父さんが想いを埋め込ませたこの仕事を継いでみないかと誘いを受けたが、僕はその誘いを断った。
興味がなかったのかと言えばそうではなかった。でも……僕には一つやらなければいけないことがこの胸の中に生まれつつあったからだ。
それに僕は父さんのように人付き合いがうまい方ではない。人見知り気味な僕に、そんな芸当はとても無理だということは自分が一番分かっていた。
僕の中に生まれつつあった思いとは。
母さんが焼き上げるカヌレを越えること。
自分の母親でありながら。生まれてからずっと一緒に時を重ねてきた。
今思えば僕は一番近くにいる両親のことを何も分からないまま、別れを告げたんだ。
記憶に残る家族としての思い出。それしか、いや、それさえも、本当に二人の表面にしか触れていないんだとようやく気が付いた。
そして僕に二人はどれだけの愛情を注ぎ育ててくれたのか。
その想いの重さをようやく感じることが出来るようになった。
しかし、何故母さんは僕にカヌレのこと、自分もフランスにいたことを言わなかったんだろうか。
正樹さんから語られた母さんとカヌレの関係。母さんが焼き上げたカヌレの話を聞いたとき、とても悔しい思いと共に、たぶん母さんの隠された過去に少しだけ触れることが出来たと思う。
「恵梨香さんは、今でも俺の師匠だ。彼女との出会いがあったからこそ、俺はこの日本でこうして自分を見失うことなく今までやってこれたんだ。太芽と恵梨香さん。あの二人は俺の道しるべでもあった」
二人を思い出すように薄っすらと涙を浮かべ、正樹さんは語った。
両親が亡くなって三浦家に引き取られたあの時、僕はなぜか正樹さんに対し、見えない壁のようなものを引いていた。それがあの時は何なのか、何故あんな気持ちになったのか。
今思えばまだ幼かったとしか言いようがない。
母さんを取られてしまう。そんな想いが先走っていたんだろう。
亡き母親の姿に、正樹さんのその姿が見事にはまってしまっていたからだろう。
その見えない壁を薄くさせてくれたのは、カヌレと言う菓子の存在だったのは今でも覚えている。
初めて三浦家に、カフェ・カヌレに出向いたあの日。出され口にした、見てくれの悪い正直あまりおいしそうな感じを持たなかった焼き菓子カヌレ。
だけど、一口口にしたとき、なぜか心がやすまった。満たされたというべきだろうか。
いや違う。安心したというべきなんだろうか。
なんか母さんがまた戻ってきたような感じがした。
そんなカヌレを作ったのがあの正樹さんであるがゆえに、そんな感情を抱いてしまったのかもしれない。
母さんはまだそばにいてくれている。母さんがいるということは、父さんも必ずいてくれている。
どうして、そんな想いに駆られたのかは分からないが、ただ、カヌレと言うものは母さんのように甘く優しい。柔らかな香りを感じていたことは確かだった。
だから僕は、政樹さんにあのカヌレの作り方を教えてもらうことで、自分自身の歩みをまた進むことが出来たのかもしれない。
きっと、そうだと思う。
そして僕には、空白な思い出がある。
その空白を取りもどす事が出来たのは。――――恵美と再び出会うことが出来たからだと。
思う。
◆ Black sweet ・Canelé ブラックスイーツ・カヌレ
「いらっしゃい結城」
そこには青い目をしたまるで人形のような。ううん、本当にここには大きな人形が美味しそうなケーキを作っているんだと。僕はそう信じていた。
たまに熊のような大きな体をしたおじさんの姿を目にしたけど、多分あれは悪い熊なんだろう。
ここにある宝石のようなお菓子を一人で食い散らかしているんだろう。
いつか僕はあの熊を倒してこの宝石のようなケーキを守らないといけないんだ。
ここはまるで絵本に出てくるような舞台が、すべてそろっているかのようなところだった。
僕は母さんによく、このケーキ屋さんに連れられて来ていた。
そしてそこにはもう一人。青い瞳をした小さな妖精がいた。
恵美。
僕はここに来るといつも恵美と一緒に遊んでいた。
金色をした長い髪の毛と、青く輝く瞳が印象的な女の子。
見た目はちょっとでも何かをすれば、壊れてしまいそうなくらい繊細な。あの頃はその繊細と言う意味は分からなかったけど、僕はお店に並ぶあのケーキたちと同じような感じで恵美を見ていたのかもしれない。
でも、実際は見た目とは正反対。
よく僕は恵美に泣かされていたんだ。
じっとしているのが苦手で、性格はまるで男の子のようだった。
家の中で、おとなしく遊んでいることなんてほとんど記憶にない。恵美が家の中でおとなしくしているのは、風邪をひいて熱を上げている時くらい。
近くの河川敷の公園にいつも引っ張り出され、暗くなるまで泥んこになりながら遊んでいた? いや、遊ばれていたというのが正しいかも……。正直まだ孝義と遊んでいる方が楽だったかもしれない。
でも、そんな恵美のことが僕は嫌いではなかった。
恵美も多分、僕の事を好きでいたくれたんだと思う。
「あのね、結城はさ。将来大人になったら私と結婚するんだよ。いい、これは約束だからね」
その言葉を僕は何度も聞かされていた。
そのたびに僕は「わかったよ。僕は恵美と結婚するよ」と答えていた。
まるで決まったセリフを繰り返すように、僕らはその言葉をお互いに繰り返していた。
まだ幼き日のことだった。
あの日、僕はいつものように母さんに連れられて、この店にやってきた。
そしていつものように恵美のところに行き、いつものようにまた外で遊ぶものだと思っていたが、その日、恵美の姿はなかった。
恵美はそのころ、近所に引っ越してきたお兄さんのところにほとんど毎日のように遊びに行っていると聞かされた。
「ほんと、恵美ったらずっと北城さんのところに行きっぱなしなんだから」
「北城さん?」
「ええ、楽器の修理屋さんやっているんだって、あの子ったら、そんなにも楽器に興味があったのかしらっていうくらい毎日通っているのよ。それにね、息子さん確か
「ふぅーん、恵美ちゃんもお年頃って言うのかしらね」
「あはは、まさかぁ。まだ小学生よ。それに恵美にはいい彼氏がいるじゃない。ねぇ、結城」
にたぁとした視線が僕に注がれる。
僕の顔は多分赤くなっているんだと思う。だって顔が熱くなってきたんだ。
そのあと、僕は恵美がいるであろうと思うその家に行ってみた。作業場のガレージ。シャッターは開いていた。
そっと音を立てないように、そのガレージの中に入ってみた。
沢山の部品と、いろんな楽器が目に入る。
誰もいない。
人の気配を感じない。
そのまま帰ろうとした時、誰かの話し声が聞こえてきた。その声は次第にこの場所に近づいてくる。
その声は。
僕が良く知る声。
見つかってはいけない。そんな思いが体を動かしていた。僕は声を殺し、ガレージの中の棚の陰にしゃがみこんで、見つからないように息をひそめた。
楽しそうな声。僕には聞かせたことがない、彼女の明るく幸せそうな声。
「あのね、結城はさ。将来大人になったら私と結婚するんだよ。いい、これは約束だからね」
なぜか恵美のあの言葉が頭の中に浮かんできた。
そぉっと、棚の陰から除き見ると、恵美の傍にいる優しそうな感じのお兄さんの姿があった。
誰だろう? ……もしかしてこの人が。
恵美。
思わず声が出そうになった僕の口をそっとふさぐ手。
その時初めて気が付いた。僕の後ろに、もう一人誰かがいることに。
その人は、声を出そうとしている僕に、二人に気づかれないようにそっと、外の方に背を押した。
その時、カタンと部品の一つが棚から落ちた。
その音に。「誰かいるの?」と僕が隠れている棚の方に二人がやってくる。
そのままその人は僕の背中を押し付けて、すっと立ち上がり「あ、わりぃ驚かせちまったか?」と言った。
「なんだ頼斗兄さんか。戻っていたんだ」
「ああ、まぁな」
「でもなんでこんなところに?」
「いやちょっとな、親父に修理頼んでいた楽器探していたんだ」
「ふぅーん、そうなんだ」
「なんだよ。嘘じゃないぜ」
「誰も嘘だなんて言っていないんだけど」
「ああっ、ええっとそうだな。あははは。それはそうと恵美ちゃんまた来ていたんだ。ほんと響音にべったりだよな」
「んっもう、変なこと言わないでよ。頼斗お兄さん。別にいいじゃない『音にぃ』と一緒にいて何かわるくて?」
「いや別に」
その隙に僕は、恵美に見つかることなくその場を立ち去った。
これが最初で最後だった。北城家があの場所に暮していた時の僕との接点は。
とぼとぼと歩き気が付けば僕はあのカフェ・カヌレのウッドドアの前に立っていた。
何か胸の中がぐちゃぐちゃとした。ぐちゃぐちゃ? じゃないドロドロ? なんだろう言葉に言い表すことの出来ないような感情が胸いっぱいに広がっていた。
そっとウッドドアを開けると、母さんの姿が真っ先に映った。
「おかえり、結城。恵美ちゃんには会えたの?」
母さんのその問いに、僕は何も答えなかった。ただ一言。
「もう帰ろ」
そう一言だけ言った。
そんな僕の様子に何かを感じたのかもしれない。母さんは。
「そうね、じゃ帰りましょうか」と、何も言わずにあの店を出た。
家に帰る途中。
「ねぇ結城。久々にカヌレ焼く?」と独り言のようにつぶやいた。
何かあるとき。そう僕の誕生日。小学校の入学式。運動会。……そうだった。
そんな時、家の中が甘い香りいっぱいに立ち込めていたのを思い出した。
ひっそりと、主役でもなく、わき役と言う事でもなく。ただカヌレと言う存在が、そこにあったのを思い出した。
思い出した……。
なんだか本当に果てしなく遠い過去のような感じがする。
僕の記憶は、何かを消し去ったように一部分が無くなっていたようだ。
あの日を最後に僕は、恵美と出会うことはなかった。
自分で自分の記憶を消し去ったのか、それとも何かあったのか。例えば事故でも……。
それすらも今の僕には、分からないことだ。
正義に聞けば何かわかるかもしれないけど、もし僕に何かあったのなら、彼奴はそのことを何気なく話に織り込んでくるだろうけど。今まで正義からもそんなことを話題として話してくることはなかった。
もちろん、恵美からもそんな……。
ただ恵美は知っていた覚えていた。幼いころ僕と一緒に遊んでいたことを。出会っていたことを。
でも再び僕と恵美が出会った時。彼女の心は壊れていた。自分の心を分厚い氷に閉ざしていた。
そんな彼女に幼いころの思い出なんか、掘り起こせることなんかできない状態だった。
それでも僕らは再び出会った。
そして僕は一方的な恋に落ちた。
高校の時、恵美に告白した時。なぜ僕はあの言葉をとっさに出したのか。
『君のことを、僕は知っている』
その時、恵美が返したのは。
『あなたは、私の何を知っているの?』
そうだよ。僕は嘘は言っていない。ただ、その空白が、白い雲の中にいるように何も見えていなかった。思い出せなかっただけだったんだよ。でも、本能的に僕は恵美のことをこの体のどこかで覚えていたんだ。
だからかもしれない。
あの時、この耳に聞こえてきた恵美の奏でるアルトサックスの音色に心が震えたのは。
偶然という奇跡の悪戯。
消し去った記憶は、母さんが焼くカヌレと言う菓子のことも、恵美と共に消し去っていたんだ。
ずいぶんと遠回りをしていたんだな。
今日のこの空は、今までどこかすっきりとしない空とは違うように見える。
晴れたこの青い空。パリでは珍しいくらい澄み切った空だ。
何が違うんだ! 正樹さんが焼き上げるカヌレと。いや、母さんが焼き上げていたあのカヌレと、僕が焼き上げるカヌレは。
その靄のような闇が何か吹っ切れたような気がした。
修行先の洋菓子店でカヌレを焼くのは、多分これが最後になるだろう。
一年と言う約束でこのフランスの地にとどまった。気が付けばその約束も半年も延長していた。
もう帰らないといけない。このままここにいるわけにはいかない。
僕には待ってくれている人いる。
もし、待ってくれる人がいなければ僕は多分ずるずるとこの地にとどまり、自分の迷走の中で答えを見つけることなく時を過ごしていたかもしれない。
それは僕が本当に求めることではない。
僕は愛する妻を一人日本に残したまま、ここにやってきているのだから。
必ず僕は日本に帰らなないといけないということを、自分のしがらみをわざと作っておいた。
結婚して。実は結婚式もまだ上げていない。ただ役所に婚姻届けと言う紙切れを一枚提出して、処理してもらっただけだけど。
それでも僕らは、事実上の夫婦なんだ。――――実際一緒にいる時間が長すぎて、夫婦としての実感はあんまりわかないんだけど。もしかしたら。これは僕の勝手な思い込みと言われても仕方がないんだけど、恵美もそうかもしれないと思っている。
恵美は違うかもしれないかな?
でもさ、そこは恵美がそう思ってくれることが僕にとっては嬉しい反面、新妻をほっぽっているダメ旦那と言われても仕方がないか。
まぁ、恵美のことだからダメ旦那じゃなくて、馬鹿旦那て言っているかもしれないな。
それならそれでいい。帰ったらこの時間の埋め合わせはきっちりと、責任をもって埋め合わせするつもりだから。
「ごめんよ恵美。我儘な馬鹿旦那で」
このフランスの澄み切った青空を眺めながら、そう呟く。
――――「もう、本当にそう思っているの?」
ふいに僕の視界が閉ざされた。
温かく、やわらかい。その手で僕の視界は閉ざされた。
懐かしい手の温もり。この柔らかな手の感触。
まさかと思ったが、この手のすべての感覚は僕が忘れることが出来ない。いや、忘れてはいけない人の手の感触だった。
その手で目を閉ざされながら僕は「どうして君がここにいるのかな?」と聞いた。
彼女はこう答えた。
「どうしてって。――――だってうちの馬鹿旦那。約束守ってくれないんだもん」
「ごめん……恵美」
「それだけじゃ許してあげないよ。私は怒っているんですからね」
「そっかぁ。それではるばるフランスまで来たって言うことか?」
「そうです! いけませんか? 私の我儘な馬鹿旦那を迎えに来ました」
「そりゃご苦労様です」と言って、彼女の体を抱きしめ、有無を言わさず、僕の唇を彼女の唇に重ね合わせた。
長い時間。周りの目なんか気にしない。ここはパリだぞ! キスくらいで、恥ずかしがっていたら。……恵美。
あふれる彼女の目から流れ出る涙。その涙は僕の頬を濡らした。
ようやく唇をはなすと恵美はひと言。
「馬鹿」
涙を流しながらそう言った。
「馬鹿馬鹿。結城の馬鹿」
ああ、本当に怒っているなこりゃ。恵美の奴。
「はい、僕は本当に馬鹿です。馬鹿でした。でもおかげでようやく見つけることが出来たよ――――。僕の本当のこれからの未来を」
「これからの本当の未来?」
「うん。そうだ」
「そこには……私はいるの?」
「何言ってんだ馬鹿だなぁ――――当たり前じゃないか。いてくれないと僕はこの先進むことなんかできないんだよ」
「本当に?」
「うん、本当だよ」
「でも私のこと今、馬鹿って言ったぁ」
「あ、ごめん馬鹿は僕でした」
「そうだよ。馬鹿ユーキ」
「――――はい」
カフェ・カヌレからほど近いいつものこの河川公園に、少したどたどしくおぼろげなアルトサックスの音色が鳴り響く。
「ねぇママ。
「うん、ほんと一曲ちゃんと吹けるようになったね。えらいえらい」
「パパどうだった?」
「上手だよ雪亜。ママより上手くなるんじゃないかな」
「ええええ! パパ、そうなの?」
「当たり前じゃないか、パパとママも子だぞ。うまくなって当然じゃないか」
「ちょっと雪亜に変なプレッシャー与えないでよ」
「そうか?」
「あら、あながち間違いじゃないんじゃない?」
「あっ! 幸子さん」
「二人の子なんだもん。当然よ」
「幸子先生。先生がそう言うんだったら本当にママより上手くなれる気がする」
「うんうん、ママなんかすぐに追い抜いちゃいな」
「うん、雪亜頑張る!」
「頑張れ雪亜ちゃん」
その雪亜の声ににっこりとほほ笑む幸子さん。相変わらず童顔で実際の年を言わなければ、まだそうなんだと納得してしまいそうな外見。
ある意味、これはいい意味でも詐欺だ。
「はい、チューニングとリペア終わりましたよ」
「ありがとうございます」
「あの人が言っていたわよ。本当に大切に使ってくれているって。ありがとうてね」
「そんな、当然じゃないですか。私にとって唯一の響音にぃの形見なんですから」
「形見ねぇ。もう形見と言うより、恵美ちゃんそのものていう感じがするんだけどね」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
「うふふ、そうだね。でも今は吹いちゃだめだよ。おなかの子に触るからね。また大きくなたんじゃない?」
「ええ、もう時期なんです」
「そっかぁ。まぁうちなんか三人も孫がいるからねぇ。もうおばあちゃんが板についてきちゃった感じかなぁ」
「おばあちゃん? それは幸子さん禁句じゃなかったんですか?」
「もういいのよ。年相応に呼ばれないとね」
「いやいや、外見まだ若すぎますよ。おばあちゃんだなんて呼ばれるには」
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない結城は。お世辞?」
「違いますよ。本当だってば」
「あらそうなの? じゃぁ結城。デートでもしちゃう?」
「もう幸子さんうちの旦那を誘惑しないでください」
「あら恵美ちゃんヤキモチやいちゃう?」
「――――べ、別にぃ」
少しぷんとした恵美の顔を久々に見た感じがした。
「あっ! まさじぃとミリママだ」
「そう言えばここにもいたんだっけ、おばあちゃんって絶対に呼ばせない人が」
「あはは、そうなんですよ」
「おーい」
正樹さん。
初夏の青空に白い綿雲がぽっかりと浮かぶ空。
その時、柔らかな風が僕らを包み込んだ。
その風はなぜかとても甘く……香ばしい香りを運んできてくれたような気がした。
僕はその空を見上げながら呟く。
母さん。
あなたのカヌレに。
僕のカヌレは近づくことが出来ていますか?
Black sweet ・Canelé ブラックスイーツ・カヌレ
fin.
君の閉ざされたその心に甘いカヌレを届けたい Black sweet ・Canelé さかき原枝都は(さかきはらえつは) @etukonyan
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