第79話 2青き空に浮かぶ白い雲
彼奴がその話を俺に相談してきたのは、恵美の大学の卒業式の日だった。
「お願いします。正樹さん」
そう言い、白い皿にカヌレをのせ、俺に差しだした。その焼きあげたカヌレを手に取り、口へと運ぶ。
まぁ見てくれは悪くはない。
いたって普通のカヌレだ。
外側は軽くカリッとした蜜が割れる音を立てる。
ほのかなラム酒の香りが洟に抜ける。そのあとを追うようにバニラビーンズの香りが後追いをかけた。
バニラはペーストではなくホールを使う。生地に練り込んだシードの黒い斑点が見える。
まぁ悪くはない。
悪くはないカヌレだ。……だがそこまでだ。
この程度のものであれば、何処でも手に入る。
そう言う事ではない。
登るべき高台は正直まだはるかに遠いということだ。
彼奴の目指すところ。それは母親である恵梨香さんが焼き上げたカヌレを越えること。
「まだ駄目だな」
俺はいつものようにそう言って彼奴を窘める。
「はぁー、またかぁ」
がっくりと頭を落とし落胆する。
その姿を見るのが俺は嬉しい。
間違っても俺は彼奴を虐めているわけではない。
可愛いのだ。今では愛おしささえ感じている。
本当の自分の息子のように。
「ああ、どうして母さんはそんなにもすごいカヌレを焼きあげることが出来たのに、僕には焼いてくれなかったんだろう」
「さぁな。でも恵梨香さんは日本に帰ってから、一度もカヌレを焼くことは無かったらしい。太芽がそんなことを言っていたな」
「どうしてなんだろう?」
「それは分かんねぇけどな」
俺はそうはぐらかす。
多分恵梨香さんは、フランスにカヌレを置いてきたんだろう。置いてきたという表現はあまりよろしくはないのかもしれない。
あの頃俺と付き合っていた。本当に俺は恵梨香さんの事を愛していた。
……今思えばこれは俺の勝手な思い込みだったのか? そうじゃねぇことを今でも俺は信じている。でも、あの時、恵梨香さんから言われた言葉。
「正樹さん、あなたは私とカヌレをもし選ぶとしたら、どちらを選ぶの?」
「はっ?」
あの時はほんと、なんか顔面にこぶしをぶつけられたような感じがしたなぁ。
「なんだよいきなり」
「いじわるな質問かしら?」
にっこりとほほ笑みながら、彼女は焼き上げたカヌレを俺に差し出した。
そのカヌレを受け取り、そのまま口にする。相変わらず美味い。美味くて当たり前である彼女の焼きあげたカヌレ。そのカヌレにこの俺は、いまだに追いつくことさえできていない。
「もし私がカヌレを焼くのをやめたら。あなたはそれでも私の傍にいてくれるの?」
「当たり前じゃないか」
「本当に言い切れるの?」
真顔で言い寄られたとき、俺は返す言葉に詰まった。
「なんでそんなことを言うんだいきなり」
「なんとなくよ……。ただ」
「ただどうしたんだ」
彼女の顔から笑みが完全に消えた。その瞬間俺は背中に冷たいものが触れたような感じがした。
「政樹さんあなたが追い求めているものは何なの? あなたの将来の絵に私の姿は本当にあるの? ……多分、あなたが追い求めている未来の景色には私の姿はないと思う。これからを一緒に歩んでいくあなたの傍にいる人はもっと。……あなたは本当はもう分かっているはず。でもそれを否定しているだけ。多分ね、このままだとあなたは私の焼くカヌレには追いつくことは出来ない」
彼女が何を言っているのかその時は理解に苦しんだ。
俺は職人だ。俺は人生をかけて、パティシエになるために、このフランスに来たんだ。そしてレーヌ・クロードの扉を開いたんだ。
その意思と想いは今でも変わりはしない。
その時だった。俺の頭の中に浮かんだのはミリッツアの姿。
なぜミリッツアの姿が浮かんだのか?
確かにミリッツアとの付き合いは長い。恵梨香さんとはくらべものならないほど長い時間を共にしてきている。
でもただそれだけだ。俺はそう思っていた。でも本当の俺は違っていた。それを俺は認めることも、受け入れることも拒んでいた。
それからだ、ずっとミリッツアのことが頭から離れなくなったのは。
太芽が日本に帰国してから、ミリッツアはその寂しさ悲しさから逃れるかのように懸命に働いていた。その姿が俺にはとてもいじらしかった。
そうだよ。今の結城、お前を見ているかのような気持ちだった。
でも勘違いはしないでほしい。ミリッツアへの想いと結城に対する想いは別物だ。
恋愛感情と言うものではなく、結城に対して映る俺の眼差しはものすごく複雑な思いが入り混じっているのは本当なことだ。
かつて愛した
未練がまったくないのか? と、自分に問いかければ、それは答えてはいけない答えが入り混じる。
「何がいけないんですか?」
「さぁな、その答えを見つけ出すのが、お前の使命じゃねぇのか」
そうだ。俺がずっと悩み、想い。今でも……。
恵梨香さん。
太芽とあなたがいなくなった今でも。
俺はずっと追い求めている。
やっぱり、あなたはすごい人だ。俺には勿体ねぇ。
太芽だからこそ、あなたを幸せにしてくれたんだと俺は思う。
俺には多分出来なかっただろうな。
俺らが、ミリッツアと娘の恵美を連れて日本に来た時。お前は何にも変わらず、あの時のまま、俺たちを迎えてくれた。
それが俺は本当にうれしかった。
本当だ。これは嘘じゃねぇよ。
実は物すげぇ不安だったんだ。
イレーヌが倒れ、もう長くねぇと宣告された。俺はレーヌ・クロードの扉を閉めるわけにはいけねぇと、後を継ごうとしたが、イレーヌは俺を破門しやがった。
店は閉めると。
そして、ヨーコからも日本に帰れと。
ミリッツアと恵美を連れて、日本に帰れと……。
自分の孫のように愛してくれた恵美と別れることになるのに、ヨーコは。
フランスの俺の親父とお袋。
多分俺たちが日本に行くことになれば、もう二度とイレーヌとは会う事は出ないことも分かっていた。
「政樹、あなたはずっと前を向いて進みなさい。それが日本でも同じこと。今まで本当にありがとう。私たちの息子。あなたは私とあの人の大切な息子よ」
その言葉が今でも俺の中にずっと残っている。
そして……。この店が無事にオープンするのを祈るかのように、オープンの数日前。
イレーヌは静かに息を引き取った。
「僕は少し先に休むよ。目覚めた時に君が傍にいてくれたら嬉しいな」
「まぁ甘えん坊さんね。イレーヌは……」
それが二人の最後の会話だった。
悲しんでなんかいられねぇ。俺にはもう守るべく家族がいる。
その日。俺たち家族と、太芽と生まれて間もない結城を大切に抱きかかえる恵梨香さん。全員で店の前で写真を撮った。
その写真をヨーコの元に送った。
ヨーコは涙声で「私たちは報われた。あなた達に救われたのよ。ありがとう、政樹。ミリッツア。太芽。そして恵梨香さん、生まれてきた新たな命と共にあなた達の未来を進みなさい」と。
オープンの当日。
俺が焼いたカヌレを恵梨香さんは一口口にして。
「合格」と一言言った。
「嘘だろ! オープン記念のお世辞じゃねぇのか?」
「ううん、本当よ。とても美味しい。もう私を越えちゃったね。政樹さん」
何が足りなかったのか? それは今まで、今でも分かんねぇけど、でもなぁ、俺にとってカヌレって言う焼き菓子は俺の人生をかけた菓子なんだ。
そう言いきってもいいとさえ、俺は思っている。
「あのさ、政樹さん」
「な、なんだどうしたんだそんなおっかねぇ顔して」
「えっ僕そんな怖い顔してる?」
「ああ、喧嘩でもおっかけようって言うのかて感じだぞ。結城」
「いや……その、そうじゃなくて……実は……」
「なんだよ、まどろっこしい。何かあんのか?」
「恵美と結婚させください!」
「はぁ?」
いきなりだったんで実感がねぇて言うのが本音だったな。結城から言われたとき。
「お前、恵美にプロポーズしたのか?」
「……まだです。これからです」
「おいおい! それって順序が違うんじゃねぇのか。――――ま、まさか。お前」
「あっ! 違います。それは違います」
「本当か?」
「本当です」
「じゃぁなんでいきなり」
「ほんといきなりで申し訳ないんですけど、あっ、恵美にはこれからちゃんとプロポーズします。その前に正樹さんに了解を取っておきたかったんです」
「あのなぁ、結城。俺たちは家族だろ。家族と言ってもお前と恵美は血のつながりはねぇから、まぁなんだ結婚は出来るんだろうけど、それにしても、一緒に暮しているし、俺もミリッツアもお前たちがそう言う付き合い方をしているのも分かっているつもりでいたんだけど、なんでそんなに急に俺に断りを入れようとするんだ。何か理由があるのか?」
「……ま、前からずっと考えていたんです。僕、フランスに修行しに行きたいんです」
「向こうにか?」
「ええ、そうです」
「ここじゃ、俺の下じゃ不満だというのか?」
「そうじゃないんです。正樹さんにはこれからもずっと指導と言うか教えてもらいたいことたくさんあります。でも、どうしても感じたいんです。政樹さんが居た。そして、父さんと母さんが出会ったフランスと言う地の景色と空気。そして水に触れたい。その想いがつのっているんです。一年でいいです。一年間で僕はフランスと言う国で何かを得たいんです。母さんの作っていたカヌレを越えるためにも」
言ってくれるじゃねぇか。
まだ子供だとばかり思っていたけど、しっかりと成長していたんだな結城。それにやっぱりお前の子だ太芽。本当にお前そっくりだ。
なんだか思い出してしまうな。
俺がお前とミリッツアをくっ付けた時のことを……。
で、また俺が人肌脱いでやらねぇといけねぇのか!
そんなことをひそかに考えていたが。
「恵美には僕がちゃんとプロポーズして了解を得ますからそこは心配しないでください」
おいおい、なんかすげぇ自信だな結城。ま、もう暗黙の了解ていうことなのかもしれねぇなこいつらは。
でも、実際結城が恵美にプロポーズするまでに、これから半年もかかるとは。
やきもきしている時間がながかったのは否めない。
そして、彼奴はすぐに飛び立った。
俺たちの故郷に。
俺たちの息子が今向こうに行ったぞ。
――――太芽。
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