その想いを甘いカヌレに込めて

第78話 1青き空に浮かぶ白い雲

「こらぁ! 戸鞠先生。校内は禁煙でしょ」

「げっ! 三浦……笹崎先生」


「まったくもう。いい加減もうやめたら。タバコ、ほんと体に良くないわよ。隠れて屋上で吸うのって教頭に見つかったら怒れるの必至よ」

「へへっ、やめられるんだったらとっくにやめていますよ。でもまだ慣れないなぁ。三浦さんって呼んじゃうの。もう笹崎なんだよね」


「んっもう、そこじゃないでしょ。でも戸鞠さんが旧姓の方が言いやすいなら、それでもかまわないんだけど」

「それってものすごく旦那様に悪いんじゃないの?」

「どう言う意味で?」

「ええっと、そのいろんな意味で」


「まだ残っている?」

「う―――――ん。どうだろう。それを聞かれたら実際なんて答えたらいいのか分かんないって言うのが本音かな」

「まだ未練たらたらじゃないの。どこがいいんだろうね。あんなの」

「ああ、それを言っちゃうの? あなたから恵美さん。そんなこと言っちゃっていいのかなぁ。自分の旦那様なのに。とっちゃうよ! いいの?」


「うっううううううぅ。ダメぇ! とっちゃダメぇ!」

「はいはい。全くもうほんとあなた達って……めんどくさ」


 飽きれたように彼女は言葉を投げ捨て、吸っていたタバコを携帯灰皿に押し込んだ。

 戸鞠真純とまりますみ。まさか彼女と同じ職場になるとは思ってもいなかった。


 高校生の頃。陰で私を支えてくれた人。そう笹崎結城ささざきゆうき

 彼の両親が事故でこの世を去り。私の家で共に暮らし過ごした日々。


 あの頃の私は確かに病んでいた。

 もうこの世にはいない私の想い人。北城響音きたしろおと。響音にぃのことを忘れられずにずっと引きずっていた。

 そんな私を目覚めさせてくれたのがユーキだった。


 高校卒業後、私は音大へ。ユーキは製菓専門学校へと進学した。

 それぞれの道を歩みながら、私たちはお互いの心を通わせ時を歩んできた。

 気が付けば私の傍にはいつもユーキがいた。


 もうユーキは私の一部。そう言っても惜しくはない存在にまでなっていた。

 そんな私たちも共に過ちを犯していた。

 私は、響音にぃへの思いを断ち切ることが出来ず、ずっとユーキのことを傷つけていた。


 そしてそのユーキは、今、私の目の前にいる彼女。戸鞠真純の心を犯し傷つけた。

 大きな騒ぎにはならなかったものの。戸鞠さんの人生を大きく変えたことは確かなことだ。


 後に知ったことだったが、ユーキと戸鞠真純はお互いの気持ちのすれ違いを感じながらも、惰性と言う感情が優位に立ち、お互いの心を傷つけた。

 結果、戸鞠真純はユーキの前からその姿を消した。

 そのことをユーキは、自分のせいだと自分自身を責め、悩んだ。私への想いと、戸鞠真純に対する想いに板挟みになりながら。


 自分がこのまま彼の傍にいれば、この板挟みで苦しむのはユーキであるということを彼女は一番分かっていたようだ。だから何も言わず、ユーキの前からその姿を消したのだ。


 過去の過ち。

 犯し続けていた時間は違えど、私たちは多くの人達へその罪を関わらせたことは間違いない。

 だけど、この人たちの温かい心の受け皿があったからこそ、今の私達が存在しえるのだとようやく、そう感じることが出来始めた。


 大学を卒業し、音楽教師の教員免許を取得していた私は、この高校へとまた戻ってきた。

 そう私達が通っていた市立森ヶ崎高校だ。

 今年の新卒の採用は二人だと聞いていた。

 採用の通知を受け、教師として、この学校に戻ってきたのだ。そしてもう一人の採用された教師と言うのが戸鞠真純であったのだ。


 正直、出会ったとき私は彼女が戸鞠真純であったことに、気が付くことが出来なかった。

 高校の時、同学年ではあったが、クラスは違っていた。彼女はユーキとおなじクラスだった。ただ、二年の時、あの過ちを犯す前、もうすでに犯していたとかもしれないが。ユーキと仲がよかった。だからなんとなく。……自然と彼女のことを目にしていたんだと思う。


 その時の容姿と比較すれば今は別人のように見えた。

 この数年間の間に彼女は、大人の女としての雰囲気を感じさせる女性に成長していた。

 私なんかまだ学生気分が抜けない、お嬢様のような幼さを逆に感じさせている。

 それに私は実際、彼女よりも一年年上なのだ。

 それなのに私は、ほんと幼さが抜け切れていない。


 でもそんな私を彼女はすぐに見つけ、声をかけてきた。

「三浦恵美さん。ですよね」

「はい。そうですけど」

「覚えているかなぁ。私、戸鞠真純です」

 その時は、彼女の名を聞いてもすぐには思い出せなかった。


「そっかぁ。やっぱり分かんないかぁ。それなら……。さ、笹崎結城君。お元気ですか?」

「あっ!」彼女からユーキの名が出た時、私の脳裏にこびりついていた断片が蘇ってきた。

 あの時の……。


 彼女にしてみれば、かなり勇気のいることだっただろう。この学校に来ること自体。

 あの時、さらりと流せばそうできたかもしれないでも私は、なんだろうか今でもよくあの時の自分のこの判断が間違いであったとは思ってはいないが、戸鞠真純を受け入れていた。


 今ではとても仲がいい。

 ユーキそっちのけで、彼女、真純ちゃんと飲みに行ったりよくショッピングを楽しんだりしている。

 そんなわけで、あの当時のことも彼女自身から、聞かされた。

 ショックだったか? 聞かなければよかったかと思うかもしれないが、何故だろうか、特別そのことに関して、私自信は受け入れていた。

 お互いに過ちを犯した仲間的な感情もあったせいかもしれない。


 でもどうして戸鞠真純は、この学校に赴任志望を出したんだろうか?

 そのことも彼女はあっさりと、自分から私に答えた。


「もう一度、あの時に戻りたかった……。あっ! そう言う意味で言っているんじゃなくてね。私のターニングポイント。大きな分岐点であったことには違いない。だからもう、戻ることは出来ないけど、こうして教師としてまたこの学校から始めようって思ったの。社会人の一歩をふみ出す第一歩はここからじゃないといけないってね」


 その彼女の思惑に、まだユーキへの想いが見え隠れしているかどうかは分からない。感じることもなかった。

 たとえ彼女の本心がもう一つあって、まだユーキへの想いが立ち切れていないとするのなら、その想いも受け入れるつもりでいた。


 何か不思議な感じしかなかった。本当に嫉妬心と言う物自体生まれてこなかった。

 だけど、彼女はその逆と言うのか、私が勝手に思っていたことだからなんとも言えないんだけど。私たち二人の仲を取り持つ? なんて言うのか「あのねぇ、あんた達ほんとめんどくさいわ。私にそんなすき見せていたら、割り込んじゃうよ」なんて言いながら、私たちの仲を積極的に取り持ってくれたりもする。


 もっとも、ユーキは戸鞠真純に対して、まだあのことを引きずっているような感じがしてならない。

 でも真純ちゃんはそんなユーキにも遠慮はなかった。わざとあの時のことを持ち出してはチクリチクリとユーキに針を差し込んでいるかのように虐めながら、まるで操縦しているかのように誘導している。


 なんだかユーキの操縦は、私よりも彼女の方が格段に上手いのかもしれない。


 その部分はちょっとだけ妬けてしまう。



 それから半年後だったかな。

 ユーキが私に真剣な顔をして――――プロポーズしてくれたのって。


 うれしかった。


 返事は即決。

「うん」とだけ答えた。それ以上の言葉はもう私達には必要ではなかったから。


 ただねぇ――。

 そのあとがねぇ―。もうぉ!


「でさぁ。あなたの馬鹿旦那から連絡はあるの? もちろん毎日あるよね新婚さんなんだもん」

「はぁ―。私早まったのかしら?」

「ないの?」

「ないの」

「マジ、いったい笹崎君は、何を考えているんだろうね」

「ほんとにもう」


 そうなのだ。プロポーズしてくれたのはいいんだけど。

 とにかく入籍だけはしてくれ。そのあと。

「僕、フランスでしばらく修行してくる」

 そう言ってユーキは飛び立ったのだ。


 甘――い。新婚の時間なんか吹っ飛ばして。最も私たちの付き合いは昨日今日のようなものじゃない。

 もうお互いのことは……。言わずとも知れている。

 だから……て言ってもなんかむかつく。


「ほんと、うちの馬鹿旦那。今フランスの空の下でどんなことしてるんだろうね」



 青い空に浮かぶ白い雲を目に入れながら。

 学校の屋上で、私はそんなことを思っていた。

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