第6話 Owe it to the wind --風に任せて--Ⅱ

「いやー待たせてすまん」


奥の厨房の方から低音の太い声が、こちらに向けて発せられた。



そこには、背の高いがっちりとした胸板の厚い熊のような男性が立っていた。


頭には、黒の低いコック帽をかぶり、きっちりと型とられた黒のコックコートにオレンジ色のチーフが首元を引き締めていた。


彼は、こちらを見るなり


「あれ! 律っちゃんも来てたのか」


と、律ねえをはにかみながら見つめた。


「だってちょっと心配だったから」


「はは、僕は別に彼をとって喰おうとなんか思ってないよ」


とあごの髭を手で擦りながら僕の方に視線を落とした。


「ようこそ結城君」


彼は、さっと手をだし握手を求めた。


とっさに椅子から降りて、カウンター越しに彼と握手をした。


その手は、その腕は、ものすごくがっちりとしていてごつごつしていた。

どうしたら、こんな手からあんな繊細なスイーツを生み出せるのか不思議なくらいに。


「はじめまして、笹崎結城です」


「そうか、君にとっては、はじめましてか」

「そうね、そうかもね」 律ねえがつぶやいた。


三浦氏が「ふう」と一息ついた。


「そうか、それでは改めて」


「ここ 「Canelé-カヌレ」のオーナー兼パテシエの三浦政樹みうらまさきだ。僕については、律っちゃんから訊いている通り。君の父上、いや、ご両親とも古くからの付き合いでね。本当は君とも初対面ではないんだよ。」


「はい、大体のことは訊いています」


「でもどうして、僕のことを……」


「うん、本来であれば、ご両親の親類が受けるのが筋だろうけどね。でも実際はこんな状態だったからね。  


僕は君のご両親が事故に遭ってからすぐに、君のもとに行かなければならなかったんだが、まっいろいろと事情があってね。」



しばらく三浦氏は沈黙を唱えた。


彼は思い立ったように。


「今、僕と君のご両親のことを話しても、今の君の状態では理解出来ない部分が多すぎると思う。そのことについては、ゆっくり時間をおいて話をした方がいいと思うのだが……」


三浦氏は視線を律ねえの方に落として俺に問いかけた。


「なぁ結城君、君は僕の申し出を受けてくれるのかな? それを決めるのは、君自身であるべきだからね。だから僕はあえて律っちゃんに、君一人で来るように伝えてもらったんだ」

「ごめんね。姉バカで」と言って律ねえは肩をひょいとすくめた。


あの時、律ねえから三浦氏の話を訊いたとき、僕は特別深くは考えていなかった。


むしろその時は、自分の置かれている状況を甘く考えていた。


仮に誰も、引き取り手が無くても、この家がなくなっても、自分ひとりなら何とかやっていけるのではないかと。


律ねえから、ある程度、僕が大学を卒業するまで充分過ぎるほどの金額の保険金があることを聞かされていた。


無論 律ねえから三浦氏のことを聞かされた時、自分が考えていたことを話してはいた。


しかし、その考えはこの国の法律がゆるさなった。


律ねえは法律のことになるとさすがだった。

あんな複雑で堅苦しい言葉が並ばれている世界。それでも律ねえは分かり易く説明をしてくれた。


要するに、未成年者は保護者がいなければ何にも出来ないという事に、僕の頭は到達した。


僕は、三浦氏の問に返事をためらった。

確かに僕一人では何もできないことは理解している。

しかし、なぜか胸の奥に重くのしかかるような、やりきれない想いが、僕を前に進めさせなかった。


沈黙が、さらに自分のいる空間を重く息苦しくさせていた。

三浦氏の視線が重くのしかかる。


「ふう」 


三浦氏が軽くため息をついた。


「だめかなー 僕の申し出は?」

沈んだ声で彼、三浦氏は問いかけた。


店内の曲が静かに代わり、聞き覚えのある懐かしいメロディーが流れ込んでくる。

子供の頃何度も、何度も観ていた物語の曲。

「新たな世界」

そう、僕も今、本当の「新たな世界」を受け入れなければならないのだ。

僕は、勇気を振り絞り 三浦氏に答えた。


「僕のこと本当に心配して頂い有難うございます。正直、今自分が置かれている状況も解ります。でも、自分がこれからどうしていったらいいのか、全くわからないんです。僕が、これから……」

両手は、痛いほど固く拳を握りしめ、腕は微かに震えていた。


言葉を出そうにも声が出ない。

最後に


「僕、もうどこにも行くところは、ありません。宜しくお願いします。」

そう言って、うつむいたまま、顔上げることが出来なかった。


三浦氏は、静かに

「わかった」と呟いて、僕の頭を軽くなでた。

「こちらこそよろしく 頼む」

三浦氏は、ショウケースから焼き菓子を取り出し、僕と律ねえの前に置いた。

「ふぁ 「カヌレ」だー」

律ねえが手を組んで喜んだ。


「ねぇ結城君マスターの創る「カヌレ」ものすごくおいしいのよ。だってお店の名前にしちゃうくらいなんだもんね」


「カヌレ?訊いたことない名前だった」そこにのは、白い皿の上にこげ茶色? いやもっと黒々としていて、カップの型だろうか、縦に溝があり、厚い歯車のよな形をしていて、ちょうどカウンターのライトの光が型の光沢部分を照らしていた。

律ねえは、一押しと言っていたが、外見は乏しく地味でこんな時にこの菓子を選んだということは、あまり歓迎されていないんだと感じていた。


しかも、フォークさえ添えられていなかった。

あまりいい気はしない。

「どうした」三浦氏が問いかける。


「いえ、なんでもありません。いただきます」

僕はその焼き菓子を手で取り、口にした。その瞬間、微かな甘酸っぱい香りが鼻をかすめる。

表面はカリッとしていて、もっちりとした弾力の歯ごたえがファーストインパクトを与える。次の瞬間、濃厚なたまごの風味と上品なバニラの香りが、程よい甘さとともに、口いっぱいに広がる。


その濃厚なハーモニーを必死に感じながら、一口目をゆっくりと飲み込む。

正直、衝撃だった。


外見からは想像もつかないほど繊細な洋菓子。

こんなの初めてだった。


「どうだ? うまいか」

「おいしいです。初めてですこんなにおいしいお菓子を食べたのは」


三浦氏は、「うん」とうなずいて


「君には、この「カヌレ」をたべてもらいたかった。

この「カヌレ」は僕にとっては想いで深い菓子なんだ。そう、君のお母さんと出会うきっかけになった菓子でもある」

「そうなんですか?」

僕がそういうのと同時に奥から、長い金髪をアップに束ね青色の縁取りのある白いコック服を着た女性が僕の視界に入った。


彼女の肌は透き通る様に白く、その瞳は鮮やかな青色に輝いていた。

その容姿からは想いもよらないほど綺麗な日本語が放たれた。


「初めまして、結城君」


彼女の優しい声と、その微笑はまるで映画のヒロインの様だった。差し伸べた彼女の手に、応える様に僕も手を差出し握手をした。


彼女の手はとても小さく、壊れてしまいそうな柔らかな手をしていた。

僕が手を放すと三浦氏は、彼女の肩に手をやり

「Militza  ミリッツァ」妻だと紹介した。

彼女「ミリッツァ」はふと僕と律ねえの前にあるカヌレを見て


「そう、よかったわ」そうつぶやき。「宜しくね結城」と微笑んだ。


なんだかとても暖かく名前を呼ばれた様に感じた。

その横には僕の妖精、「三浦恵美」が恥ずかしそうにうつむいている。


告白の答えも無いまま、僕は彼女と同居することになった。

風の赴くままに



だけどまだ僕には、これから明かされる彼女の大きな苦しみと、悲しみを受け入れなければならないことを、想像すらしていなかった。


あまりにも切ない、恵美の音色を……。

僕が彼女「恵美」と一つ屋根に暮らし始めたのは、夏休みもあと残り僅かとなったころだった。

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