第26話 3.想われ人
家に着き僕はキッチンのテーブルに買ってきた材料を置き、鍋を探した。しかし、いくら探しても土鍋は見当たらない。キッチンの下の扉を開け床に座り込んで、奥まで覗き込んでいた。
「ねぇ、何探してんのぉユーキ」
ふと見上げると、着替えをして薄手のパーカーを着た恵美が、不思議そうに僕を覗き込んでいた。恵美の姿が目に入ったと同時に、広く胸元が開いたパーカーの下からピンク色をしたブラと、こんもりと盛り上がった胸の谷間が、僕の目を覆った。彼女は僕の目線が、自分の胸元にあるのをとっさに感じ
「ばかぁ、ユーキのエッチ」
そう言って、両腕で胸元を隠し立ち上がった。恵美は顔を少し赤らめて
「まったくもう」
少し怒ったように、また頬を軽く膨らませたが、その表情は怒っているようにはみえなかった。
「ごめん、事故だよ、事故。それより恵美、土鍋知らない? いくら探しても見つからないんだ」
「土鍋なら、そっちの扉」
彼女は、奥の扉の方を指さして
「もうぉ、それなら早く聞いてよね」
恵美は、僕から顔を逸らして照れ臭そうに言い放った。まだ、顔が赤いことを悟られないように
僕は恵美が指さした扉を開けた
「あ、あったあった。これこれ、探していたの、よかったよ。ありがとう恵美」
「どういたしまして。それより何か手伝うことある?」
「え、手伝ってくれるの」
「だって、ユーキ一人に夕食作ってもらうの、悪いじゃない。それに私だって女よ、料理の一つくらい出来るわよ」
僕は少し驚いた。恵美が自分から進んで、僕と何かしようと言ってくれたのはこれが、初めての事だったから。
「ありがとう、それじゃお米といでもらおうかな」
「うん、解った」
そう言って彼女は、ボールにお米を取り、がしゃがしゃととぎだした。
「ねぇ恵美、そのお米何合?」
「え、お米の袋からこれくらいかなって思うくらいよ」
僕は、お米の袋を見て
「あのさ、このお米無洗米だよ。そんなに力入れてとがなくても良いんだけど。それとお水の量どうするの?」
「無洗米って何? それにお水の量って適当でいいのよね。炊飯器が自動で調節してくれるのよね」
僕は一瞬、未来の炊飯器でもあるのかと思った。前にミリッツァが恵美が料理音痴と言っていたのを思い出した。いや、料理音痴ではなくそれ以前の問題の様だ。
「無洗米は、精米したときに米ぬかをきれいに落として、あんまりお米をとがなくてもいいようにしたお米。それに、水の量を自動で調節してくれる炊飯器は、残念ながら今のところ発売されては、いないようだけどな」
僕は恵美からお米の入ったボールを受け取り
「無洗米はお水を入れて軽くかき回して、2,3回水を替えて出来上がり。後、水の量はお米の量と炊飯器のメモリの量が同じところまで入れるんだけど。それにといだ後は、少し水に浸しておくんだ。そうするとお米が水を吸って、ふっくらと炊き上がるんだ」
恵美は、僕の説明を興味深く聴いていた。
「ねぇ、じゃぁこのお米どうしようか」
「しょうがない、今回は奥の手だ」
そう言って僕は、ボールから炊飯器の窯にお米を移し、少しづつ水を入れ手を開いてお米と併せた、ちょうど、指の付け根から少し離れたところで水を止め
「うん、こんなもんだろう。あとは勘かな」
「えぇ、これでいいのぉ」
「ああ、多分大丈夫さ。本当は、メモリなんか頼らずにこうやってお米の状態を見ながら、水加減を調節して炊くのが昔ながらのやり方みたいだけど」
「そうなんだ。ユーキって料理のこと詳しいのね。あなたのお嫁さんになる人がうらやましいわ。毎日美味しい料理食べさせてもらえるんだもの」
「おいおい、まだお米炊くことしかしてないぞ」
恵美の言葉に少しドキッとした。お嫁さん。そう僕の目の前で、僕の説明を聴いている恵美が僕と結婚をするのを想像してしまったからだ。ちょっと照れ臭かった。でもうれしかった。
ふと、恵美は
「ユーキ、最近少し変わったね」
「ん、そうかな」
「どう変わったかは、旨く説明できないけど、ちょっと感じが変わったかなって。そんな気がしただけ、気にしないで」
彼女恵美は、僕が響音さんの存在を知り北城先生と響音さんの墓参りに行った事をまだ知らない。そして僕は、恵美の心の悲しみを受け止めると決めた。だから、僕は恵美をこれ以上苦しめることはしたくはない。もう、あの河川敷で見た彼女の心をナイフで切り裂くような悲しい鳴き声を耳にはしたくない。だから僕は、恵美を守ってあげられる、包み込んであげられる力を付けたい。そんな想いが少し表面に出ていたからだろうか、彼女があんなことを言ったのは。
「なんか、私の出る出番はないみたいね。なんか私、結城の邪魔してるみたいだし、部屋に行ってアルト調整してよっかなぁ」
「ははは、邪魔じゃないけど。そうだ、今度時間作って料理教えるよ。恵美の未来の旦那様が栄養失調にならないようにな」
「まぁ、ひどい。でもお願いしようかなぁ、パパとママもお店で忙しいし自分でやっても多分才能ないから」
「そうだな、カレーライスくらいは作れるようにな」
「よろしくお願いします。ユーキ先生」
恵美は頭を上げて、にっこりと微笑んだ。その表情は、あの響音さんと一緒に写っていたアルバムにあるような笑顔だった。
「そうだ恵美、政樹さんたち何時に上がるか聞いてきて。それと辛めの白ワインもらってきてくれるかな」
「わかった。それじゃ、あとお願いね」
そう言って恵美は厨房の方へ向かった。
「さぁて、下ごしらえしちゃおっかな」
今日のカフェ・カヌレは、早い時間に店を閉めた。
いつもは、8時30分には、ラストのオーダーを受け、9時前には閉店する。だが今日は、30分くらい早い閉店だった。
そう、履歴書の彼女、
カフェ・カヌレには、常時3人の女性従業員がいる。彼女たちの仕事は主に接客対応だ。厨房にたずさわるのは、政樹さんとミリッツァそして、早朝の仕込みの、学校が休みの時、限定で手伝うことになっている僕くらいだ。
今まで、政樹さんは10人の修行志願者を受け入れた。その志願者は皆男性だった。10人の修行者のうち、独立して店を今も経営しているのは、たった一人だと訊いたことがある。中には、自分の才能に自信過剰になり、政樹さんの忠告を聞かずに店を開業し、すぐに潰してしまった人もいたと訊いていた。「悲しいことだよ」彼、政樹さんはそういっていた。
今回の修行志願者は、初めての女性だ。だからこそ、同じフランスのあの店で修行をしてきたミリッツァに、意見を聞きたかったのだろう。政樹さんも彼女、冨喜摩 葵の人生を背負うことになるのだから。
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