第52話5.この想いをあなたに

 この想いをあなたに届けたい。

 届けられるのなら、僕はいますぐにでも君にその想いを届けるだろう。

 でも、君にはその想いは届かないだろう。何故なら君の中には未だ、忘れる事が出来ない人が生きているから。


 僕はその人を失くしたくはない。

 君の中からその人の思い出を失わせることは決してしたくはない。

 だからこそ、僕の想いは君に伝わらない。伝えようとはしていない。


 伝えようとはしていない……。


 それは嘘だ。僕は、僕の想いを君に伝えたいんだ。どうしようもなくこの切ない想いを、その気持ちを君にいつの日か受け止めてもらいたい。

 その日がいつの日になるのかは分からない。


 桜のつぼみはかたい殻を破り、その可憐な花を今咲かせようとしている。

 そう寒く、そして心に温かい冬が終わりを告げた。


 季節は巡る。


 春と言う、うららかな季節に移り行く。


 一つの恋が終わりその恋は新たな出会いとなった。

 戸鞠真純とまりますみ、もう僕の前にはその姿を見る事は無い。例え同じ駅、おなじ町にいる時間があるにせよ、僕らはお互いにその姿をこの目に入れる事は無かった。


 僕らの高校生活は後、残す処1年を切った。


 森ケ崎高校3年は、今まで居た新校舎から木造の旧校舎へと移籍する。

 これはこの高校の伝統であり、森ケ崎高校への別れの時間を過ごす時でもある。

 この高校の想いを僕らはおよそ1年間この旧校舎から受け継ぐのだ。


 そして恵美にはこの数ヶ月が自分にとって、

 あの人と共に求めた想いを、届けるラストステージとなる。



「おーい、みんな、席に付け!」

 三学期の終業式が終わりこの校舎と、そしてこのクラスのメンバーとの別れの最後のホームルームが今始まろうとしていた。


「みんな、無事3年生への進級おめでとう。これで俺も何とか肩の荷を降ろせそうだ。おまえらへの想いはいろいろあるが、とにかくよく頑張ってくれたと思う。まぁ、俺も至らない所はあったが、こうして進級できたのも皆自分たちの努力の成果だ。そしてこれからの進路に向け最後のひと踏ん張りを、俺に見せてくれ。3年になれば自分たちの進むべく道を目指す事になる。今いるこのクラスのメンバーはバラバラになるが、いつでも、そして今まで過ごしてきたこの時間は何時までも失う事は無い。そして決して忘れてはいけない時間を君たちは持っている事を3年になっても覚えていてほしい」


 そう、僕らは今まで一緒にいたこのクラスの仲間との時間を忘れてはいけない。


 この半年あまりの間のこの過ぎた時間は、僕にとって忘れる事の出来ない時間だった。

 ホームルームが終わり、2年間過ごしたこの校舎の窓から外を眺めているとスマホにメールが来た。頼斗さんからだった。

「恵美が玄関でお前の事待ってるぞ。早く行ってやれよ結城」


 あ、そっかぁ。今日は一緒に帰ろうって言っていたんだった。

 急いで生徒玄関に向かうと。


「ユーキ、遅いよ」と僕に微笑む妖精の姿が目に映る。

「ごめん遅くなった」

「なにしてたの?」ふときびすを返す様に恵美は外に向かう。


「待てよ、怒ってんのか?」

「怒ってなんかないわよ。だから何してたのって聞いているだけじゃない」

 暖かい日差しに、少しひんやりと感じる海風が僕ら二人を包み込んだ。



「教室の窓から、外を。空を眺めていた」



 どうして?

 「何となく。何となく眺めていたんだよ」

 「そう……、その窓の外には何がいたのかな? ユーキ」


 「うん、青い空と白い雲が浮かんでいた。それをあの窓から眺めていたんだ」


「そうかァ……」恵美がくすくすと笑いだした。

「そんなにおかしいか?」

「ううん、ちょっと思い出しただけ」

「なんだよ。気になるじゃないか!」


「そうぉ、今頃だったかぁって。2年前、河川敷で黙って私を見ていた変な男の子がいたなぁって」

「……それって俺の事か?」

「さぁ、どうだか」

 そっと恵美の手が僕の手を握ってきた。


「バスで行かないのか?」

「一緒にいるの、まだ恥ずかしい?」

 僕の顔を恵美は見つめながら言う。


 周りからは僕ら二人を冷ややかに、面白半分に見つめる幾つもの目がった。

 それでも僕は恵美のその手をしっかりと握り返した。


 その手をまた強く握り返す。ふっと恵美の表情が少し和らいだような感じがする。

 彼女も勇気を振り絞り、僕に自分自身を向けてくれている。その気持ちをしっかりと受け止める。僕が迷えば、強くなくてはいけない自分に、また背を向ける事はもう出来ない。

 たとえ周りがどんな目で僕ら二人を見ていようが。

 たとえ、どんなに辛い思いをしようが。


 僕は恵美を包んであげないといけない。

 それが戸鞠真純と別れ、傷つき悩み。僕が得た道先なのだから。


 だが、まだ恵美の心の中には彼、北城響音きたしろおとが生きている。

 決して彼女の中から消える事のない人の想い。

 消してはいけない彼の恵美への想いを。

 その想いを僕は全て包み込んだ。


 恵美の閉ざされた心の中を知り、その心に触れる事を恐れていた自分。

 逃げていた自分。


『向き合う事って言うのは……自分の想いを全て注ぎ込む事』

 この言葉は、戸鞠にも言える言葉。そして、僕の今一番身近に存在する恵美にも言える事だったんだ。


 戸鞠との事が無ければ僕はこの事に気が付くことはなかっただろう。だけど、それは良い事だったとは言えない。

 しかし、彼女を傷つけたこと以前に、僕はもっと大切な人の心を踏みにじっていた事に気が付いた。そう、恵美自身の気持ちだ。


 僕は恵美に対して本当に向き合っていたのか? いや、向き合おうともしていなかった。向き合えば恵美が傷つく、その恐怖心に捕らわれていた。北城響音の存在を知るこの僕の存在を、恵美に覚られない様にしていること自体、それは向き合う事を拒絶していた事と同じ事だ。


「なぁ、結城、親父から訊いたぞ。お前、お袋のバリトン吹いたんだってな」

「済みません、勝手なことして」

「別にいいよ。じつはな、俺も何度かあのバリトン吹いてみた事あるんだ。でも、俺には吹けなかった。正直音すら出す事も出来なかった。お袋から、お前には無理だって言われたような感じがしたよ。それをお前が吹き馴らすとはな。正直恐れ入ったよ」


 煙草に火を点けて軽く煙を吐きだしながら

「お袋、なんて言っていた」校舎の屋上からゆっくり沈む夕日を眺めながら頼斗さんは呟いた。


 千葉から戻って数日後、僕をこの屋上に連れ出し話したことだ。

 校舎の屋上は生徒は立ち入り禁止。

 僕と彼、頼斗さんと生徒と教師と言う関係を抜きにして、話せる場所としては都合のいい場所だ。


 誰の為にあなたはこの音を届けたいの?


「僕にはそんな言葉が、あのバリトンを吹いている時、そんな気持ちがしたと言うか。音と共にささやかれたような感じがしました」

「そうか。お袋は応えてくれたんだ、お前に。俺には、いや俺達には何も囁いてはくれなかった。でも、俺はあのバリトンを目にするたびに思うんだ。あたたかさと厳しさをな」


「あたたかさと厳しさ?」


「多分それがお袋が俺に伝えたいことなのかもしれない。俺も音楽と言う道を歩んだ。その俺に向けたお袋のメッセージだと感じている。音楽は人の心をあたたかくさせてくれる。そしてその逆に人の心を冷たくもさせてしまう。それはその奏者が、何を誰に伝えたいかと言う想いにすべて繋がっているんだと」


「つまりは音を楽しめ、と言う事ですか?」


「まぁ、簡単に言えばそうだな。だが、自分自身だけが楽しめれば音楽ってそれでいいと言うものなのか、音楽と言うものは? 曲と言うものは聴いてくれる人がいるから、始めてその音が生き始める。そして、その音が聴く人の心を揺さぶる。だが、その反面、奏者はそのために自分をいつも冷酷に追い詰めないといけない。何故なら自分の為にその音を奏でているんじゃないからだ」


「自分の為じゃない」


「そうだ、自分の為だけならば、どんな事だってできるだろう。だって自分が楽しけりゃそれでいいんだから。でも、聴いてくれる人がいる。その人の為に奏でる音は全く違う。なぁ、結城。お前が戸鞠と付き合い、結果こうなったのもお互いに自分の為に奏でた音に過ぎないんじゃないのか? そしてお前は自分の奏でる曲を誰にも聞かせようとはしなかった。戸鞠にも、恵美にも。そして俺たちにもな」


 正直その言葉が胸に刺さった。

「戸鞠の転校件、編入先の高校もちょうど空きがあってな。特例編入と言う事で、編入試験も合格したそうだ。俺のクラスから一人姿を消す事になったのはいささか辛いが、こうなった以上後は素直に受け止めるしかないだろう」


 何も返す事が出来なかった。

 落ちこんだ姿の僕の肩を頼斗さんはポンと叩き

「まぁ、そんなに自分を追い詰めるな。向こうの親も今回の事はもうこれ以上騒ぎ立てる事はしないと言ってくれている。律子も心配している。早く立ち直れ結城」


 頼斗さんの言葉を胸に秘めながら、その後、雨宮さんから父さんが残してくれた言葉を僕は受け継いだ。


 向き合う事って言うのは……自分の想いを全て注ぎ込む事。


 思いもしなかった父さんが残してくれた言葉が、僕の気持ちに何かを示してくれたような気がした。

 葵さんと戸鞠が偶然出逢い、いや戸鞠が僕を訪ねて来てくれていた事に、心が救われた。いや、僕は戸鞠に救われたんだと思う。


 彼女の新たな想いをこの僕に届けるために。


「一緒にいるの、まだ恥ずかしい?」

「恥ずかしいもんか!」恵美のその手を力強く握り返す。


 この手を僕は離してはいけない。絶対に離してはいけないんだ。

 僕らは、肩を並べゆっくりと駅への道のりを歩き始めた。



 今にも咲き始めようとしている桜の木の下を恵美と共に同じ道を歩む。



 そして舞台はまだ桜のつぼみが固く閉ざされた。


 1か月前にさかのぼる。





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