第51話4.この想いをあなたに
人の繋がりは自分の思いもしないところで結ばれている。
全く関係のない人でも何らかの影響は受けるものだ。
親しい人との関わりしかないというのは、ある一点からしか自分を見てもらうことしかできないような気がする。
ただ、その人が自分をどう思っているかは、その人の感じ方次第ということは言うまでもないだろう。
葵さんから呼び出され、戸鞠のその名を聞かされたとき、なぜ? いまこんな状態の時、葵さんは戸鞠の名を口にしたんだろう。
寄り添う気持ちに、求める気持ちがそうさせたのかもしれない。
テーブルに置かれた「カヌレ」とミルクティ。ほのかな温かさを感じさせてくれるミルクティは、二人の冷えた体と心を暖かく包み込む。
「ねぇ戸鞠さん、このお菓子の名前知っている?」
カヌレを目の前にして葵さんが戸鞠に聞く
「カヌレ?」
「うん、そうカヌレ。このカヌレが、全てを失った私をまた歩ませてくれた。壊れ、失ったものは悲しみと言うものじゃなかった。ただの恐怖だった。その恐怖が私を壊した。いいえ、私達二人を引き裂いた。でも何もかも失い生きる希望も、生きる事に対して自分が恐怖を感じていた時。何気なく入ったこの店で、このカヌレを食べた。その時私はこのカヌレに惚れた。いいえこのカヌレが私の新たな道を切り開いてくれた。だから私は今ここにいる」
「ちょっと待ってください、わ、私いきなりそんな事言われても何が何だか」
いきなりそんなこと言われても面食らってしまう。
次第に暗がりに沈みゆく河川敷の方に目を投げかけ、葵さんの視線をそらした。
「戸鞠真純さん。ううん、真純ちゃん。私あなたの事結城から聞いているのよ。こうして会えたのがいい事なのかそれとも、さっきのあなたの姿から察するといけなかったのかは分からないけど、真純ちゃんには一度会ってみたかったんだぁ」
「笹崎君からですか? なんて話されたかは分からないですけど、会ってみたいなんて思ってもいませんでした」
「うん、色んな意味でね」ちょっとぎこちなかったけど、にっこりと微笑んで見せる葵さんのその姿が何となく引っかかる。
それでも「そ、そうなんですか?」と、平然なふりをしてかえしたが、顔がほてってくるような恥かしさを感じた。
「まぁ本題に入るけど、結城と何かあった? 喧嘩でもしたのかなぁ」
「喧嘩……、そうならいいんですけどね」
「もっと深刻なのかなぁ?」
「そうですね。深刻と言えば深刻です。わ、私、笹崎君と別れたんです」
「別れた? 原因は……多分結城ね」
「どうしてそういいきれるんですか?」
戸鞠のその一言が話を動きださせた。
「大方、恵美ちゃんの事があなたの耳に入ったんでしょ」
「どうして? 富喜摩さんはそこまで知っているんですか? 笹崎君が全部話したんですか?」
「ううん、結城からはあなたと言う
「壊れた? 壊れたんじゃなくて。笹崎君は、笹崎君は……」
その言葉で一瞬頭の中が真っ白になった。
「あなたを騙していた? そう思っているの?」
ズキンと胸に何かが刺さる様な気がした。
「だって、そうでしょ。私の事愛してるって言いいながら、心の中では三浦さんの事を想っていた。それって私を騙していた事じゃないんですか」
私の心が叫んでいた。その気持ちが私の口から飛び出していた。
「そうだね。結城はあなたを騙していた。でもそれは騙していたとは言えないんじゃないかな」
「どうしてですか?」
怒りにた感情が込み上げてくる。私が全て悪いとでも言っているの?
その感情は多分顔に出ているんだろう。そんな私の顔を真っすぐに見つめ、葵さんは言った。
「だって、あなたも。真純ちゃんも結城の気持ち、本当は知っていたんでしょ。それでもあなたは結城を自分に振り向かせたかった。そしてすべてを自分のものにしたかった。そうでしょ、真純ちゃん」
「そ、それは……」何で? 何も分からいくせに、そんな事を言えるんだろうこの人は。
でも葵さんの目はずっと私の目を見つめている。そらす事さえしてくれない。
本当に一直線だ。
勝てないなぁ。この人、葵さんには……。
そうよ、私は知っていた。笹崎君が三浦さんの事を想っている事を。それでも私は笹崎君を自分に振り向かせたかった。どんな代償もいとわないと思った。
だって、好きだったから。
きっと、きっと私が笹崎君の中から三浦さんの事を全て忘れさせてあげられると思っていた。
でも、あの時。
クリスマスのあの日、この店の外から見た二人のあの姿。
孝義君から聞いた事を確かめたかっただけだったのに。
たとえ二人が同じ屋根の下で一緒に暮らしていたとしても、それはただの事実に過ぎない事。両親を一度に亡くした彼に与えられた事情だと私は信じていた。ううん、信じたかった。
ただの偶然、笹崎君にも避けられない事情なんだと、自分に言い聞かせたかった。
でも、あの日この店の外で二人が一緒に働くあの姿を見た時、私の中で、一生懸命に支えていた何かが崩れ始めた。
あの微笑ましい二人のその姿を見つめながら、崩れた私の想いをもとに戻そうとした。戻したかったでも、一度崩れた所は元に戻るどころか、大きな穴が開いていくように広がっていった。
本当にもろかった。
私が積み上げてきたこの想いが、すべて崩れていく。
そして残ったものは悲しみじゃなかった。恐怖と怒り、私を支配したのはその二つだった。
だから孝義君から笹崎君を呼び出してもらった。その恐怖と怒りを私はあの時笹崎君にぶつけたかっただけだった。彼は何も悪くない。ただ私の弱さが彼を罵った。
あの後私は後悔した。後悔しきれないほど後悔した。
笹崎君を失った事よりも、自分がしでかしてしまった事に、この胸が張り裂けるように痛かった。
その後湧き出るように襲ったものは悲しみだった。
どうしようもない悲しみ。独りぼっちになった悲しみ。
また私は一人になったと言う悲しみに包まれた。
ずっと私は一人だった。
誰も私を包んでくれる人なんかいなかった。私の家族も、友達も、あたたかく包んでくれる人なんかいなかった。
ようやく見つけた、私のこの寂しい心を包んでくれる温かい人。それが笹崎君だった。
大切な彼への想い、ようやく得た唯一の温もりを失った悲しみ。
また一人っきりになる事が嫌だった。一人になる寂しさから私は逃げたかった。
だから私は自分を消そうとした。
でも、……消せなかった。
恐怖。
さっき葵さんが言っていた。「恐怖が私達二人を引き裂いた」って。
「もしかして、葵さんも辛い事あったんですか?」
「ん、私の事? そうねぇ、もうだいぶ前の事だからねぇ。でも私は生きる、進む道を見つけた。そして今はそれに向かっているだけ」
「それがこのカヌレ、だったんですか?」
「そう、このカヌレが私の人生を大きく変えた。そして私を救ってくれた。食べてごらん真純ちゃん。きっとあなたにもこのカヌレは応えてくれると思うよ。分かるんだぁ、その気持ち。だから食べて貰いたい、何かを感じ取ってもらいたいんだ」
カヌレ、目の前にあるこの焼き菓子。正直華やかさはないし、見てくれも黒くなんとなく堅そうで、取っつきにくそうなお菓子。
硬い殻で覆われた、まるで今の私を見ているような感じのお菓子。
一口、口にしてみた。
パリッと外側の硬そうな殻が軽く割れ、その中から抜けるバニラと甘い洋酒の香り。中から伝わる優しい柔らかさと滑らかさ。
何だろう? この満ち足りた様な心地よさは。
「どうぉ、美味しい? 私の運命を変えたこのお菓子の味は」
「美味しいです」
「そう、良かった。このカヌレって外側の見てくれは悪いけど、口にした時にその優しさと素晴らしさを感じる事が出来る。まぁ例えは良くないかもしれないけど、結城みたいな感じがしないか?」
「笹崎君みたいな感じ?」
「あ、結城じゃこのカヌレに失礼だよな、あんな半人前の子と一緒だなんていうのは」
「そんな事ありません! 似ていると思います。笹崎君に。笹崎君の温かさに」
「ほう、良く言うねぇ。さっきまであんなに目を赤くして泣いていた子が」
葵さんは笑いながら言っていた。
なんだか、泣いていたのが馬鹿らしくなってきた。
カヌレって名前だけは知っていた。でも本当に食べたのは今日が始めてだった。
何か笹崎君の本当の姿に少し触れる事が出来たような気した。
そう、これは私がしでかした事。笹崎君の気持ちを騙し、もてあそんだと言われても仕方がない。
笹崎君は本当に優しい心の持ち主なんだ。そんな彼を私は強引に引っ張った。もし、私が本当に彼の事が好きならば、いいえ愛しているのならこんなことくらいで、私は笹崎君を手放したりはしかっただろう。
やっぱり、私もまだ……子供だったんだ。
「真純ちゃんその後、この手紙書いて私に渡したんだ。彼女、帰り際に「笹崎君に、ありがとう。て伝えてください」てな。ま、真純ちゃんと今日あった事のこれが全部だ。その手紙の中に何がかかれているのかは私は知らない。でも結城はその手紙は必ず読むべきだと私は思うよ。彼女の本当の気持ち、素直な気持ちが多分、書かれていると思うからな」
戸鞠の素直な気持ちが書かれているその手紙を前にして、少し……、胸の中が痛むのを感じる。
でも、どんな事がかかれていようとも僕は、その気持ちを受け止めないといけない。
きっといつの日か、また戸鞠と笑顔で出会える日を信じて。
自分の部屋に戻りゆっくりとその封筒の封を開けた。
戸鞠からの手紙には、僕が知る真純の言葉が書かれていた。
「ごめんね。あんなこと言って。でも今は許してもらおうなんて思わない。だから笹崎君も自分を責めないで。どんな理由があるのかは私は今はわからない。でも、笹崎君が三浦さんを想う気持ちは、何か特別な事があるように思えている自分が今、ここにいます。いい思い出をありがとう。私は、私は三浦さんを超える女になってやる! またお互い笑顔で逢える日を信じて。その時、また笹崎君の淹れた珈琲飲ませてね。多分……私は、貴方の事を忘れない」
一つの恋の終わりは。
一つの出会いとなった。
その手紙の上に――――僕の涙の雫が落ちていた。
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