第39話4.冬空に響く音色
忙しい時は不思議といろんなことが重なる。
そう言う時期であると言えば、それだけにしかならないが、体がもう一つ本当に欲しいと思う時がその時だろう。
12月23日、祝日でありクリスマスの前日だが、実際この日からクリスマスは始まっている。
『カフェ・カヌレ』にはクリスマスケーキの予約注文が2か月前から入っている。実際23日に販売できるケーキの数量はもう12月になる前に完売状態だった。
政樹さんも、ミリッツアも、そして葵さんも必死にケーキを作るのにその躰も精神もすべてを注いでいる。
そして恵美も森ケ崎吹奏楽部の定期演奏会の当日を迎えている。
「結城、カウンターの方は大丈夫そうか?」
政樹さんが予約注文を受け取りに来るお客さんの事とを心配している。
「大丈夫です。何とか順調に行っています」
この日ばかりはいつものホールスタッフも予約注文のお客とフリーで来るお客を同時に接客しないといけないので本当に目が回るようだ。
当然予約注文のケーキが主体となるが、ショーケースの中を切らすわけにもいかない。いつもよりは商品の種類はかなり限定しているが瞬く間に売れていく。
これだけ、売れるとなんだか見ていて気持ちもいいんだが、厨房を覗くとそのあまりの必死さに近寄りがたい雰囲気だ。
もうじき恵美たちの定期演奏会が始まる時間だ。ふと時計を見ながらそんな事を考えていた。
本当は演奏会に行って恵美の演奏する姿を見たかった。いやそれを言えば僕よりも、親である正樹さんもミリッツアも定期演奏会に行けるものなら行きたいと強く願っているんだろう。自分の娘の晴れの舞台を見に行きたい。そう思う親の気持ちは痛いほど伝わってくる。
演奏時間はおよそ2時間。午後3時から5時ごろまでだ。しかしその時間帯は一番お店が込み合う時間だ。なにせ予約の受け取り時間がその時間に殺到している。
出来立てのケーキを夕食後家族みんなで味わいたい。その想いがこの時間を自ずと選んだのだろう。
次第にお店にも行列ができ始めた。
受け取り時間までどんなに頑張っても今は10分以上の待ち時間が必要となった。
毎年恒例だから、と、お客さんも良心的に笑顔で注文したケーキを受け取ってくれる。その笑顔を見るたびに何だろう、ものを作り、喜んでもらう事の尊さを感じる。「商品に常に向き合え」政樹さんはいつも葵さんにその言葉を言っている。
その意味はあのお客さんの笑顔に変わるんだと僕は、厨房で必死にケーキを作っている葵さんに見てもらいたかった。
ようやく最大のピーク時間が過ぎた。ホールスタフもみんなホットした笑みをこぼす様になった。
「ようやく山場を越えたな」政樹さんが厨房からその姿を見せたのは午後7時を過ぎていた。どんなに忙しくても正樹さんのその姿はいつもと変わらないきっちりとした姿、作業着のコック服に汚れは一つもないその姿に本当のプロとしての技量を見たような気がする。
政樹さんは僕の横に来て「本当によく頑張ってくれた。ありがとう」と一言言ってくれた。その一言で僕は物凄く満ち足りた気持ちになれた。
まだ予約はあるが、ピーク時からすれば忙しさを感じるほどではない。後は、遅番のホールスタッフでも十分にまわす事が出来る。
「結城もう大丈夫だ。すまんが少し休んでから夕食を作ってもらえると助かるんだが大丈夫か?」
「大丈夫ですよ。そのつもりでいましたから、心配しないでください」
「そうか! 頼もしくなったな結城。頼む……あとこっちももう少しで落ち着くだろう」
そう言ってまたまた厨房へとその姿を戻した。
もう、今日の夕食は決めてあった。その下ごしらえも朝のうちに済ませていた。今日の夕食は『おでん』だ。
普通、クリスマス……23日だから前日と言えばそうなんだが、定番のローストチキンやらなにやらのパーティー用のメニューが浮かぶが、僕はあえて『おでん』にした。
今日の『カフェ・カヌレ』のラストオーダーは20時30分。いつもより30分早い時間だ。そして政樹さんたちが厨房から上がってくるのは21時を過ぎたあたりだろう。それに合わせ僕は下ごしらえをしていた『おでん』の具材をゆっくりと煮込み始める。
ふとスマホを見ると戸鞠からメールが来ていた
「今日は、雨宮さんのところ休んだの?」
戸鞠は僕がいると思いお店を訪ねたが「笹崎君なら今日はお休みよ」と雨宮さんはさりげなく戸鞠に言ったらしい。
返信に「ごめん今日はどうしても叔父が手伝えって、だからいけなかったんだ」
何とも心が痛む言い訳だが、僕はこう戸鞠に返す事しか出来ない。
「お店が忙しいから手伝っていた」
なんて送ったからには必ず戸鞠はなんの店なのかと訊き返すだろう。
正直に『カヌレ』と言う名を出せないのが少し胸が痛い。
すぐに戸鞠から返信が来た
「ねぇ、明日は逢えるんでしょ。だってイヴだよ。」
クリスマス・イヴ。普通なら……戸鞠からすれば僕と一緒にいたいという気持ちは、痛いほど感じている。でも明日も店は忙しい。当然僕も手伝う予定でいる。
怒るだろうな……戸鞠……いや、真純。
どうも、何と言い訳を送ったらいいのか。もうその言い訳自体思いつかない。偽りの事を何時まで隠し通す事が出来るんだろう。そんな恐怖感にも似た思いが僕を襲った。そしてただ一言「……ごめん」とだけ送ってやった。
それっきり、その日真純からはメールは来なかった。
その日の夕食のおでんは政樹さんはとても喜んでくれた。
「まさか、この時期におでんを食べられるとは、思ってもいなかったよ」
「前にミリッツアから政樹さんがおでん好きだと訊いていたんで今日はおでんと決めていました」
「そうか、ありがとう結城。うまいよ。本当に。思い出すよ俺のお袋の事を」
そっとミリッツアは政樹さんの肩に手を添えて
「結城ありがとう。今年はもう乗り切ったも同然ね。あなた」
「ああ、そうだな」
「結城ってさぁ、不思議なところあるよね。なんだろう人の心をつかむのが上手いって言うのかな? これじゃちょっと変な言い方かもしれないけど、でも私結城の事好きだよ。料理はうまいし、思いやりはあるし……ねぇ、私が自分のお店持てるようになったら私の旦那になってもらいたいくらい。年の差なんか関係ないわよね。愛があれば」
「お、爆弾発言だな葵、でもお前が自分の店もてるようになるまでは、まだ何年もかかるぞ。そこまで結城を離さないでいられるのか? 最も結城の方に好きな人が出来ちゃうんじゃないのか」
政樹さんは冗談ぽく言っていたが、ちくりと胸を刺される思いがするのは葵さんが目配りを僕にくれているせいかもしれない。なにせ葵さんには戸鞠の事を話している、だから何となく胸が痛い。
「あははは、冗談ですよ。結城ならもっといい彼女見つけ出しますよきっと」
僕にすかさずウインクする葵さんにドキッとした。
その話を恵美は黙って聞いていた。
「恵美、今日の定期演奏会どうだった?」
話題を恵美に振ったが、恵美は何となく元気がない。
「上手く言ったわよ」としか話さなかった。何となく今日の恵美は一人自分の世界に入って殻を作っているようなそんな感じがした。
僕の話が……そんな話が出たからだろうか? それとも何か恵美自体にあったのか? それは分からない。ただ昨日の恵美とは違う雰囲気になっている事は確かだった。
夕食後恵美にメールをしてみた。
「今日何かあった?」すぐに返信が来た。
「何でもないわよ……どうして? 何か変だった」
「少し元気がなかったから」その後コールが鳴った。
「ごめん、心配かけてユーキ。何でもないのよ本当に。だから心配しないで……」
「うん、わかった」
「ユーキ明日もお店手伝うの?」
「そのつもりだけど」
「そっかぁ……じゃぁ私も手伝おっかなぁ」
「え、本当に。明日は部活休みなんだ」
「さすがにねぇ、定期も終わったし少しゆっくりさせないと」
「それじゃ明日一緒にお店頑張ろう」
「そうね、私もう休むから明日ね。それじゃ」
通話は切れた……。
なにがあったかは分からない。そして恵美の今の気持ちもどう感じているのかも何も分からないが、ただ、こうして恵美と会話ができること自体僕は嬉しかった。
一体僕の心と体は今どこをさまよっているんだろう。
その僕自身さえ分からないまま……。
時は流れていく。
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