第40話5.冬空に響く音色

 12月24日……クリスマス・イヴ

 朝から昨日の延長戦が始まった感じだ。


 昨日よりも今朝は作業に入る時間が早い。大量のスポンジを焼き上げ、クリームが解けないよう十分に冷ます。なかには前日から仕込んでおかなければいけないベースもある。その作り方やかかる時間は様々だ。


 カフェ・カヌレの厨房はまだ暗い内からフル稼働している。

 オーブンから焼きあがる商品のベースを手際よく並べカッティングをし、デコレーションを施す。素朴な色合いのベースはたちまちのうちに輝く宝石のよな彩なケーキに変身する。


 その変化を作業をしながら見ていると、その繊細さはまるでガラス細工や華やかな装飾品を創り上げているような感じに見える。


 朝食は今日は早めにとる事にした。その準備も僕は怠る事が無いよう作業をする。

 朝のコーヒー、これは政樹さんのその日の一日の活力の様なものだ。雨宮さんの所から戴いて来たコーヒー豆を挽き、じっくりと慎重にドリップをする。


「さぁ、今日も一日頑張ろう。今日を乗り越えれば後は大丈夫だ」

 政樹さんがコーヒーを飲み終えてから、自分に活を入れようにみんなに話す。

 正直疲労感は半端ないものだろう。でも今日の予約も昨日と同じくらい入っている。まして今日はフリーの分も多めに作り上げなければいけない。


 厨房はまた立ち入りがたい忙しが待っている。

 前日の祝日と日曜日が並んだ連休。この二日間が勝負だ。

 予約のピークは午後3時から6時のこの3時間。


 それでも、午前中からここカフェ・カヌレのケーキを求め来店する客は多い。


 今日は僕の傍に恵美もいる。


 僕が初めて、ここに来てあのウッドドアを開けた時、出迎えてくれたのは恵美だった。その時と同じ、赤いベレー帽に黒のオープンシャツそして今日はオレンジ色のチーフをしている。

 その容姿はもうすでに大人の女性を思わせる姿に見えた。彼女のあの金髪と整ったスタイルがより一層大人びさせているのだろう。


 不思議な感覚だ。恵美と一緒に仕事をする事は今までになかった事だ。何となく緊張するというのだろうか? それとも恵美を意識している自分がもどかしいのだろうか?


「どうしたのユーキ?」

 あまり恵美の事を見つめていたせいかもしれない。

「な、何でもないよ。ただ……」

「ただどうしたの?」


「懐かしいなって、その姿」恵美はその言葉に思い出した様に。

「そうね……」とだけ言って接客に入った。


 お昼過ぎにカランカランと、あのウッドドアを開ける音と共に店内入って来たのは、律ねぇだった。

 斎藤律子さいとうりつこ元、親父の会社の顧問弁護士。今はもう会社とは離れ別な依頼元との契約をしている。


「やっほぉ―、結城久しぶり!」相変わらず元気で僕を自分の弟の様にしたってくれている。

「あ、律ねぇ、ほんとに久しぶりだね」

「よしよし、結城も元気に頑張っているわね。あ、恵美ちゃん久しぶり」

「お久しぶりです」まぁ恵美も知らない仲ではない。なにせ親父とはよくここに来ていたらしいからな。親父が死んで律ねぇも自分の支えを失ったかのようなそんな日々を過ごしていた。今だから思う。


 律ねぇは親父の事が好きだった……いや愛していたんだと思う。


 まるで家族同然の様に過ごしたあの日々。僕も律ねぇも今はもう遠い過去の思い出の一つとなっている。


「ねぇ結城ちょっといい」律ねぇは僕を手招きする。

 律ねぇの傍に行くと僕の耳にそっと語り掛けるように

「恵美ちゃんとはその後どうなの? 上手く行っている」と耳打ちしてきた。


「はぁ―、恵美とは仲良くやっているよ」とだけ返してやった。

「そうかぁ、仲良くね……特別進展は無しかァ……ちょっと残念」

 残念も何も同じ家の中で暮らしていて「好きだから僕と付き合ってください。僕は君の事すべて知っている、それでもいいから僕と一緒に付き合ってほしい」


 なんて簡単に言えるわけがない。恵美の想いや響音さんのことを知っている僕は何も知らない色目使いの男どもと違うのだ。


「ところで律ねぇ今日は? 何か用事でもあったの」

「ン、もう。ちゃんとケーキの予約受け取りに来たのよ」

 その後少し律ねぇの頬が染まった感じがした。


「あ、そうか。ありがとうございます。それでは只今ご準備いたします」

 この時間の予約カードで斎藤律子の名を探したが見つからなかった。

「律ねぇ、予約本当にした?」

「したわよ……多分。」


「多分って……予約カードないんだよ。もしかしてこっちのミスかな?」

 もう一度念入りにカードを見直す。ふとそこに北城頼斗きたしろらいとと書かれた予約票が目についた。

 北城頼斗……担任の名前だ。先生も予約してくれていたんだそう思っていた。


「あのね……もしかしたら北城頼斗で注文入れてない?」

 その律ねぇの問いに僕は耳を疑った。

 そして恵美と顔を見合わせ、思わず「えっ!」と声に出してしまった。

「律ねぇ……」

「んもぉ―、だから自分で受け取りに行ってて言ったのに」


 思わずまた二人で「えっ!」と声に出す。


 恵美が「もしかして律子さん先生と……」

「なりゆきよ、なりゆきでそうなっただけだから……」と、言っていたが僕はしっかりと律ねぇの指にはめられた指輪を目にした。


「プロポーズされたんだ、律ねぇ」

「ま、ま―ね」もうこうなったら律ねぇは、腹を括ったかの様に

「ら、来年の春にね、席だけ取り敢えず入れる事にしたの」


 恥ずかしそうに、でもこれほどまで幸せそうな律ねぇの顔を見るのは本当に久しぶりだった。僕ら……もう今はないあの家族の中にいた時の様に……。

 僕と恵美は声をそろえて

「おめでとうございます」と、息ぴったりに言った。その声を訊きつけた政樹さんがやってきて。


「どうしたんだ?」と不思議そうにしていた。

「律子さん、北城先生と来年の春結婚されるんですって」

「おお、本当か? りっちゃん。ようやく二人にも幸運の風が舞い降りたか。『félicitations フェリシタシオン(フランス語・祝福の言葉)』」

 傍に来ていたミリッツアも。

「おめでとう」と祝福してくれた。それを聞いていた店内にいるお客さんから拍手がなった。


 クリスマス・イヴの日、ここ『カフェ・カヌレ』の店内は暖かい雰囲気に包まれた。


「お祝いだこれ持っていけ」と政樹さんがワインを一本プレゼントに持たせてくれた。

「あれ、おかしいなぁ……何だろう。涙が出てきちゃった。ありがとう……皆さん」

 幸せいっぱいの涙。律ねぇもようやく……喜ばしい反面、なんだか少し寂しい気もした。姉貴の様に慕っていた律ねぇが結婚する。今までとは違う律ねぇになっていく気がしたから……。


 そして僕の隣でひっそりと自分の心の奥に仕舞い込んできた想いを込み上げているかのように、うっすらと目に涙を浮かべている恵美の姿がそこにあった。

 恵美にとっては複雑な想いかもしれない。でも響音さんの兄である北城先生が幸せになることを祝福している事は違いない。


 午後8時、ようやく今年のクリスマスケーキの予約分が終わった。

「お疲れ様でした」僕と恵美は遅番のスタッフに後を任せ店から上がった。

 その後夕食の支度をしていた、その時僕のスマホが鳴った。


 急いで取ると戸鞠からだった。

「……ご、めんなさい。忙しんでしょ……で、電話して」

 声の様子がおかしい。


「どうしたんだよ」

 戸鞠はただ一言だけ……「逢いたい」と言って電話を切った。


 もう9時半を過ぎていた。でも、僕はジャケットを取り外に出ようとした。


 その時。


「ユーキ、これから出かけるの?」後ろから身を引かれるような声で恵美が言う。


「う、うん……ちょっと用事が出来て。夕食はもう出来ているから先に食べていて」


 その後、恵美は何も声を出さなかった。


 振り向きもせず僕は玄関戸を閉めた。

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