第32話3.表と裏・・・想いと気持ちの狭間に
「お疲れ様」ミリッツァが微笑んで二人を迎えた。
「富喜摩さん、今日は本当に疲れたでしょ」
「そ、そんな事ありません。今日はずっとマスター? えーとなんてお呼びすればいいのか分かりませんが、あの作品達が出来るのをまじかに見る事が出来てとても感激しています」
椅子に腰を掛けずに立ったままちょっと興奮気味に彼女は話した。
「あははは、それでもかなり緊張はしていたようだったけどな」
「そ、そりゃぁ……もちろんですよ。なにせ憧れの『カヌレ』の厨房の中に入る事が出来ただけでも本当に緊張ものですからね」
「そんなに緊張ばかりしているといい仕事は出来ないぞ。もっと肩の力を抜いて。うちはね、確かに仕事に関して言えばかなり厳しいかもしれない。いや、厳しいだろう。妥協は自分への甘えだといつも僕は自分自身に言っているからね。でも、いったん仕事を離れたら、もうそれを引きずる事は一切しない。今はもう私の家の、家族の中だ。私の家族の中では全てが平等であってお互いを支え合って生きているつもりだよ」
政樹さんの言葉は厳しく重かった。でもその重さの中には優しさが込められている様に僕は感じた。そして彼が富喜摩さんに向けるまなざしも優しさに満ち溢れている事にきずいた。
ミリッツァが部屋にいた恵美をダイニングに呼んできて
「それじゃ、僕の家族を紹介するよ。僕の妻のミリッツアはもう知っているね」
「はい……」
「後、僕の一人娘の恵美、今は高校生だ。そして彼が
「……え、私もこの家族の一員として」
「当然だろ。僕の弟子に入ったと言う事はもすでに家族だ。僕はいつもそう接していたよ」
「あ、ありがとうございます……」彼女は深々と頭を下げ、涙を一粒二粒と床に落とした。
「ご、ごめんなさい。感激しちゃって……涙が、勝手に」
「葵さんて感激しやすいんですね」
「あはは、そうかもね。自分では知らなかったけど……」
「結城も言うようになったな」
政樹さんがにこやかに言う。僕はその正樹さんのその表情が最近はとても好きだ。まるで父さんがにこやかに笑っているような感じがするからだ。
今日の夕食はとても暖かい雰囲気の中で過ごす事が出来た。恵美も葵さんと共に笑い。僕もそれに便乗して笑って恵美に怒られたり……。
本当に楽しいひと時を過ごした。
葵さんは、しばらくの間ここ三浦家と共に暮らす。部屋は僕の向かいの部屋、実は空いている部屋がそこしかないのだ。高校男子の向かいに寝泊りをさせるのは多少気がかりだったようだが「あ、大丈夫です。私そんな事気にしませんから」と、あっけらかんと言う葵さんの性格は、意外にもさばけている様にも思えた。
森祭も終わり、僕は一時休んでいた『カヌレ』の朝の仕込み作業の手伝いを再開させた。無論、僕の今できる事を少しずつやっていくだけだが。でも、富喜摩葵は違う。彼女はもうすでに専門学校も出ていて、パティシエとしての基本は身に付けている。行う作業は政樹さんやミリッツア同様朝からハードなものだった。
「結城、もうこんな時間、朝食お願いできるかしら?」ミリッツァが僕に投げかける。
「分かりました、それじゃ抜けます」
「ああ、頼む結城」政樹さんが僕に声をかけてくれる。今まではなかった事だ、葵さんが来てから自分たちの作業も少しは任せる部分が出来たせいだろうか、しかし葵さんに向けられるその目は厳しい。いつも彼女に二人とも付きっきりだ。作業一つ一つを細かに指導しているのが分かる。
だが決して彼女に対し、大きな声を出したり、怒鳴ったりはしない。彼女の技量を瞬時に見抜き、伸ばせる部分をこれから最大現伸ばそうという姿勢が感じられた。
『レーヌ・クロード 』二人がフランスで修行をしていた店。そこでの修行経験は今この『カヌレ』の中でも生きている。
二人もこの修行と呼べる期間を乗り越え、そして毎日が日々の修行として自分を高めようとしている。
今日の朝食は和食だ。
出し巻き卵の厚焼き、焼魚、ちょっとした浅漬けに味噌汁。そして炊き立てのご飯。
至ってシンプルだけど、和食の時政樹さんは目を細め、懐かしむように食べてくれる。もっとも恵美の朝は和食よりも軽い食事の方がいいようだ。恵美だけはオムレツにインスタントだけどスープにパン。この取り合わせだ。出来ればサラダくらいは付けてやりたいけど、そこまでの時間が無いのが事実。
急いで朝食の支度をして、コーヒーのドリップが終わるころ厨房から三人はダイニングに上がってくる。
「ふぅ」と息を突く様に政樹さんが椅子に座り、目の前に置かれているコーヒーをまずは一口口に含む。
「今日のコーヒーいつものコーヒーと違うな」政樹さんはコーヒーに関しては敏感だ。
「少し今日は酸味を効かせてみました。どうですか?」
「うん、いいよ。朝の疲れがこの一口で癒されるよ」そう言ってもらう事がどれだけ僕に対する褒め言葉だろうかと感じる。
「うわぁー、美味ししい。それにこの香り。ねぇ結城君てバリスタの才能あるんじゃない?」
「そんな、自己流ですよ。でも気にって頂いて嬉しいです」
「おはよう」恵美が自分の部屋から制服姿でやって来た。このコーヒーの香りが家じゅうに漂うのが合図の様に恵美は起きてくる。
「あれ、恵美、今日は部活なの?」
「うん、三年生抜けたから今の私達の新体制早く確立させないといけないんだもん」
「あんまりむりすんなよ」
何気なく出た僕のその言葉に恵美は「わかってるてば!」ちょっとムッとして返す。でもその顔はなんだか少し赤かった。
「あ、いけないもうこんな時間」恵美は自分の朝食を急いで食べ上げ、最後にコーヒーを口に含む。「今日のコーヒー美味しい」そう一言言い残し「それじゃ行ってきます」と急いで家を出た。
「まったくエミーったら」ミリッツァが呆れた様に言いながら「気を付けてね」玄関から「はーい」と恵美の声が聞こえたと思うとばたんと戸が閉まる音がした。
「さて、店のスタッフも、もう開店準備をしている頃だろう。もうじき開店だ、今日も一日よろしく頼む」
そう言って政樹さんは店へ向かった。
「後は僕やっておきますから」そうミリッツアに僕が言うと「ありがとう、お願いするわ」彼女も椅子から立ち上がる。
葵さんも急いで後についていく。
『カフェ・カヌレ』の一日が始まる。今日もこの店に惹かれ多くの人たちがやってくる。人々の心に至福とひと時の安らぎを求めて……。
僕が朝食のかたずけが終わった頃、スマホが鳴った。あの音はメールだろう。
何気なくそのメールを開けてみると、それは恵美からだった。
「ごめんユーキ、急いで来ちゃったからリードケース持って来るの忘れちゃった。学校まで届けてくれると物凄く助かるんだけど……大丈夫?」
折り返しメールをした。
「大丈夫だけど、どこにあるの?」
すぐに返信が来た。「多分机の上。今回だけ部屋入ってもいいけど変なとこ触らないでよ。絶対に‼」
「わかってるよ。机の上だね」そう確認のメールを送り恵美の部屋の前に立った時一瞬体が止まった。
恵美の部屋……今までは入った事もないこの部屋。心臓の鼓動が少しづつ高鳴りを感じる。本当に入ってもいいんだろうか?
でも入らなければ恵美からの頼まれたリードケースは届ける事が出来ない。いくら本人の了解を得ているにせよ、入るのには物凄く勇気が必要だった。
手に若干の汗がにじみ出ていた。
ゆっくりとその部屋の戸を開ける。
こざっぱりとしたきちんと整理された部屋だった。一歩その部屋の中に入るとほのかに恵美のあの香りが僕の鼻をくすぐった。
あまり部屋の中をじろじろ見るのはいけない、真っすぐ目に入った机の上にあるそのケースを手にした時、僕はその机の上に飾られているフォトフレームに目を奪われた。
そこには……恵美と
「響音さん……」
響音さんがまだ元気なころの時だろう。その写真に写る恵美の表情はとても柔らかくそして温かみを感じさせた。
今のあの悲しさを、あの目の奥に秘めた表情じゃない。
これが恵美の本来の姿。そして恵美の本当の想い人である事に今一度思い知らされた。響音さんと言うこの人への深い恵美の愛を……。
その時僕の恵美への気持ちに影を作り始めていた事に、まだ気付いてはいなかった。
そしてその恵美自体、自分の夢が目標が立ち消えそうになる。そんな事が彼女に襲い掛かる事も今はまだその影は落とされていない。
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