第42話1.求める人に

 さようなら。その言葉に秘められた想いはどれだけ切ないものなんだろう。

 それは言う本人も、そして言われる側にも辛い思いを背をわせる。


 さようなら、その言葉は別れのときの言葉。

 でも、その言葉から僕らはまた一つ大人へなっていく。

 出会いと別れ。求める人。求められる人。

 彼女はその言葉を残し僕の前からその姿を消し去った。


 後悔、苦しみ、悲しみが僕を襲う。もう、戻ることはできない恋を僕は終わらせてしまった。

 彼女の事についてはもう少し時間をいてからでないと、僕自身の心の整理がつかない。


 突如に訪れた彼女との別れ。

 それはあまりにも唐突すぎたから……。


 新たな年を迎えその日の空は青く澄みきっていた。

 その空に響く恵美が奏でるアルトサックスの音色。その響きは向こうの世界にいる響音さんにも届いているだろう。


 僕が初めて訊いた恵美のこの音色は物凄く切なく、そして悲しみに満ちていた。その悲しみが僕の心を揺さぶったのだろうか? それとも彼女の想いがあの音色に乗せられ、僕のこの心に響いたのだろうか?

 僕の妖精のその姿は確実に変わっていた。悲しみと言う呪縛からすこしずつ解放されていくかの様に。そしてその妖精の羽が広がるその姿を描いているかのように。


 いま、僕は彼女の傍でその高らかに鳴り響く、アルトサックスの音を聴いている。

 今までは離れた所からしか聴くことが出来なかった、恵美の奏でるアルトサックスの音色をすぐ傍で聞いている。


 その日僕の部屋に恵美が訪れた。

「ユーキ、今日吹きに行くけど、一緒に来ない?」


 初めての事だった。恵美からの誘い……あの河川敷にいるときは恵美はいつも響音さんと一緒にいた。きっとそうだろう。

 あの河川敷で奏でるアルトサックスは響音さんと繋がっている。そんな中に僕が本当に行ってもいいんだろうか?


「いいの? 僕がいると邪魔なんじゃない?」

 恵美は少しの間黙っていたが、ゆっくりと顔を左右に振った。

「ユーキに傍にいてほしい。今日はそんな気分なの」


 その言葉に僕はあとは何も言わずに恵美と河川敷に向かい、今彼女の奏でる音を訊いている。

 数曲吹き終わると恵美は僕が座っているベンチの横に座って、晴れ渡った空を見上げた。

「綺麗」その空を見上げ恵美が一言口にする。


 その空を僕も一緒に眺めた。本当に澄みきった冬の青空。

 陽の光が僕らを包み込み暖かさを感じさせる。


「今日はどうしたんだい。いつもは一人で来ているのに」

「何となく……よ。結城いつも私がここでこのサックス吹いているの見に来ていたでしょ。たまには誘ってもいいのかなぁって。迷惑だった?」

「迷惑なもんか! 嬉しいよ恵美がこうして誘ってくれた事」

「そう……」少し寂しそうな恵美の声だった。


 しばらくの間二人の仲に静かな風の音だけが耳に入る。

「律子さん、春に北城先生と結婚するのよね」

「そうだったね。僕もびっくりしたよ」


「ユーキ、寂しくない?」

「どうして?」


「だって律子さんユーキにとってお姉さんの様な人なんでしょ。唯一、ユーキの身近な人が離れていくような感じがしない? 今までと違う人になってしまうかもしれないのよ。北城先生と結婚すれば、ユーキの傍にいられなくなっちゃうかもしれないのよ。それでも寂しくないの? ユーキは」


「正直寂しくないって言ったら嘘になるかな。去年、父さんも母さんも死んじゃって、いつも僕の傍にいてくれた律ねぇが結婚する。みんな僕から離れていくようなそんな気がするのは正直寂しい。でも……、律ねぇは幸せになって僕から離れていくんだと思うと、僕もいつまでも律ねぇに甘えてばかりはいられないなって、だから寂しいのと嬉しいのとが半分ずつ行ったり来たりしているよ」


「そっかぁ……ユーキやっぱり私より大人だね。私は正直、寂しい……」

 恵美が口にした寂しいという言葉。それを僕は追及はしなかった。


 北城先生は恵美の最愛の人、北城響音の義兄弟である事を知っていたから、あえてその後何も話さなかった。

 北城響音、彼の存在はまだ僕は知らない事にしておきたかった。


 でも恵美は感じていたんだろう。北城先生が律ねぇと結婚すれば、必ず彼、北城響音と言う存在が僕の前に現れる事を。

 隠し通せない事実を。そして恵美の今までの想いが露わになる事を……。事実が、現実が今もうすぐ傍にまた恵美の心に覆いかぶさろうとしている事を、彼女自身感じているんだろう。


 僕は卑怯かもしれない。恵美のその想いを全て知りながら、彼女には嘘をついている。この嘘をいつまで僕は隠し通せるのだろう。

 いや、いつまで隠していなければいけないんだろうか?


 いつまで僕は……本当の僕の気持ちを恵美に向ける事が出来るんだろうか。そんな日が本当にやってくるんだろうか? そんな気持ちが僕を覆いつくす。


 クリスマスのあの日、戸鞠を駅で待っていて僕は帰宅後、玄関の前で倒れていた。その日高熱を出し、ずっと僕の傍に恵美はいてくれた。

 どうして? 今までそんな事なかったのに。でも恵美は一言「」そう彼女は言った。


 恵美にとって今の僕はどんな存在なんだろうか? それは本人でなければ分からない。でも、恵美は……彼女の心は少しづつ変わってきている事は感じ始めている。それが本当に良い事なのか? 今僕は恵美を想いながら彼女の知らない所で戸鞠真澄とも付き合っている。


 そんな僕が本当に恵美を愛せる資格があるのだろうか? 二股をかけている嫌な男。今僕はそんな気持ちを影をひそめながら、恵美のその変わりゆく想いを受け止めようともしている。

 絡みゆく3本のこの糸。この糸は何時かどこかで切れてしまうんだろうか?

 戸鞠とは、あの日以来何も連絡は取っていない。

 雨宮さんの所に行っても、戸鞠はその姿を現さなかった。

 そして僕から送ったメールは、戸鞠から返ってくることもなくなった。


 そんな時、孝義たかよしから僕の携帯にメールが来た「話がある」とだけのメールだった。

 こんなメールが来る時彼奴がいるのは、前に僕が住んでいた家の近くの公園。暗黙の了解の様に僕はその公園に向かった。


 恵美はもう部活が始まっていた。朝から休みの間はほとんど楽部は部活を行う。

 何も言わず僕は家を出て来た。孝義からのメール。それはあまりいい感じのしないメールである事を知っている。彼奴がぶっきらぼうに何も言わないときは必ずもめごとがある時だからだ。


 公園に着くと孝義はベンチに座って僕を待っていた。そしてその横に……彼女、戸鞠真澄の姿があった。


「真純……」その僕の声に彼女は僕の方を遠くを見つめるような目で見つめていた。

「遅かったな結城。待ちくたびれた」

「なんだよ、急に呼び出しておいて、それはないだろう孝義」

 ふん、と孝義は鼻を鳴らす。そんな時はかなり気まずい時の孝義だ。


「で、何だよ話って」そう僕が切り出すと、戸鞠が「笹崎君、本当の事なの? 三浦恵美さんと一緒に暮らしているって?」

 戸鞠からその事を訊いた時僕の鼓動は激しく鳴り出した。


「ど、どうして、それを……」


「俺が全部戸鞠に話した」孝義がベンチに座りながら、下を俯き話し始めた。


「結城お前、本当に戸鞠の事が好きなのかよ? お前は本当に戸鞠の事を大切にしてあげる事が出来るのかよ。俺には今のお前を見ている限りそうとは思えねぇ。ただ戸鞠を傷つけことしかお前は今していなんじゃないのか?」


「……そ、そんな事」その後の言葉が続かない。


「どうして、違うって言ってくれないの? 恵美さんとは事情があって一緒に暮らしているだけだって、どうして言ってくれなかったの。本当は笹崎君、恵美さんの事が好きなの? 孝義君が言った事って全部本当の事なの? 高校に入学する前から、笹崎君は恵美さんの事を好きだったの。そして今でも、恵美さんの事を愛している……の?」


「みんな話してやったよ結城。お前の事洗いざらいな。本当は戸鞠は二股かけられているんだってことをな」


「どうして……孝義、どうしてそんな事を戸鞠に言うんだ!」

 その瞬間孝義はベンチから立ち上がり僕の頬に拳を殴りつけた。その反動で僕は地面に倒れ込み。


「馬鹿野郎! どうしてじゃねぇだろ。お前、俺が戸鞠の事好きな事気付いていたんだろ。でも、戸鞠はお前の事を好きでたまらなかった。それをいい事にお前は戸鞠に、こいつに、甘えた。俺の今やっている事は卑怯だ、だけどよう結城。今のお前の方が俺よりよっぽど汚ねぇ。お前は戸鞠の気持ちをもてあそんでいるだけだろうが。でも俺は、本当に戸鞠の事が好きなんだ。最初は、戸鞠がどうしても結城の事が好きなら、そしてお前が戸鞠の事をしっかりと受け止めてくれるんだったら……。俺は、俺は……」



 孝義は、手に拳と力いっぱい握りしめ、目から涙を溢れ出していた。


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