第34話5.表と裏・・・想いと気持ちの狭間に

 こじんまりとした小さな店だったけど、このコーヒーの香りは柔らかく甘い香りがする。そんな香りがこの店全体を包んでいた。


 5席ほどのカウンター席の手前に、コーヒー豆が入った大きめのガラス瓶が整然と並び、二つに区切られたショーケースの半分に大きな深型のバットの中で、こんがりと色よくローストされている豆が目にうつる。アンティーク調の椅子やテーブル、そしてケースに収められているカップの種類も意外と多い。


 カウンターの中で、真剣な表情でコーヒーを淹れる女性の人が目に映る。

 黒い髪を後ろで一つにまとめ、黒色のブラウスにオレンジ色の肩掛け紐のエプロンをした細身の人。


 ここはサイフォン式でなくドリップでコーヒーを淹れているんだ。僕は彼女のその様子を少しみつめていた。

 ふと彼女が僕たちの方に「ごめんなさい。も少しお待ちいただけますか?」と、ドリッパーから沈みゆく豆の様子を見ながら言う。


「大丈夫です。少し豆を見させてください」

「どうぞご自由に」


 この甘い香りは今淹れているコーヒーの香りだろう。どんな種類の豆を使って淹れているんだろうか? ストレート? それともブレンだろうか?

 ようやうドリップが終わりテーブル席にいる客にそのコーヒーを出し終わると

「ごめんなさい。お待たせして」

 なんとなく人懐っこい声で僕らに語りかける。


「今日はもしかしてコーヒー豆を撰びに来てくれたのかな?」

「ええ、そうですけど……」

「それじゃ、うちの一番お勧めブレンド。こちらはいかがですか?」


「それってさっきドリップしていたものですか?」

「ん、そうだけど、君ってもしかしてコーヒーにはうるさい人?」


「そんなにもですけど、コーヒーは好きです」

「そっかぁ、じゃ、ちょっと時間ある? 良かったら、このブレンドし試飲してみる?」

「できるんですか?」

「ええ、うちは初めてのお客様には出来るだけ試飲してもらってるの。それから決めてもらっても構わないわよ。もちろん気に入らなかったら買わなくてもいいし。ねぇ、彼女も一緒に飲んでみる?」


「あ、はい。お願いします」

 僕たち二人が付き合っている様に見えたのか、戸鞠を僕の彼女と言った感じで言った。それを察したのか戸鞠の顔が少し赤らんでいた。


 僕たちはカウンターのスツールに腰かけ、彼女の淹れるコーヒーを待つ。

 ショーケースからブレンドの豆を取り出し、豆を挽き、彼女の中にある手順通りにそのコーヒーはドリップされていく。

 またほのかな甘い香りが僕の鼻をくすぐる。


 ゆっくりとケトルのお湯を入れ、ドリッパーに蓋をしてしばしの蒸らしの時間を取る。ゆっくりと静かに茶褐色の泡が膨らみ始める。

 試飲用だが、淹れ方は店内で出す淹れ方と同じだ。


 小さなカップに、そのコーヒーを入れ「はい、お待たせいたしました。どうぞお試しください」と、僕たちの目にそのカップは置かれた。


 色も薄くなくそして湯気と共にたちこめるこの甘い香りが何とも言えない。

 一口口にすると、スッとした甘味と苦みそして渋みが深みを出していた。


「どうですか?うちのブレンドは」

「ねぇ、美味しいよね。うちの近くにこんな美味しいコーヒー屋さんがあったなんて知らなかったよ」

「うん、美味しい。戸鞠このブレンドでいい?」

「うん、私これがいい。飲みやすいしそれにあんまり苦くないもん。お砂糖入れなくても飲めてるし」


「じゃぁこのブレンドコーヒーをください」

「はい、ありがとうございます。どれくらいお分けいたしますか?」


 僕は戸鞠の顔をちらっと見てから「200グラムを二袋にしてください」と、注文すると

「笹崎君、2つも買うの?」

「一つは自分用、美味しいから自分用にも買っていくよ」


「そうなんだ……、じゃ、笹崎君と同じコーヒー飲めるって言う事ね」

 何となく同じものを共有しているのが嬉しいのか、戸鞠の顔がにこっとする。


「あ、それとキリマン100グラムもください」

「は―い、キリマンジャロ100グラムね」

 小袋に豆を入れ、しっかりと封をして閉じる。ここのお店は小さいけれどコーヒーに物凄いこだわりを持ったお店だと思った。


「君、やっぱりコ―ヒーに詳しそう……。このブレンドとキリマンジャロ頼む人ってそうそういないわよ」

「そんな事ないです、ただコーヒーが好きなだけです」

「ふぅ――んそうなんだ。でも君、どっかで見た事ある様な気がするんだけど? うちのお店には初めてよね」


「はい、そうですけど……よく似た人いるんですね」

「まぁ、商売上いろんな人が来るからね。そうだ、これおまけね。彼女と一緒にどうぞ」

 お店の紙袋に一緒に入れてくれたのは、焼き菓子だった。


「これ、うちで焼いているフィナンシエ。良かったらどうぞ」

 フィナンシエ、フランスの代表的な焼き菓子。

『カフェ・カヌレ』でもつくられている焼き菓子。カヌレ同様人気商品でもある。


「ありがとうございます」

「いいえ、また来てね。それとこれ私の名刺」

 そこにはお店の名前と彼女の名前が書かれていた。


 Café des Prairies 草原のコーヒー屋 雨宮あまみやさおり。


 フランス語で書かれた店名がなぜか懐かしさを感じさせた。

「結構いい値段したね、大丈夫こんなに使っちゃって」

「大丈夫だよ。それにあのお店ならまだ良心的な値段だと思うよ。コーヒー豆の管理もちゃんとしているし、それに焙煎の技術もいい。このブレンドもかなり思考錯誤してブレンドしたんだと思う。それを思うと本当はもっと高くてもいいじゃないかなってくらいだよ」


「さすがもうプロみたい。でもこれでようやく念願の笹崎君の淹れるコーヒーが飲める。良かったぁ、早く飲みたい!」


 戸鞠は僕の手を取り足早に僕を自宅へ向けさせる。本当に一直線の子だ。

 偶然入ったコーヒー屋だった。でも何だろう不思議と何かつながりを感じたのはなぜだろう? 単なる僕の気のせいかもしれない……。


 冷たい冬の風が僕たちの間をすり抜ける。「ほんと今日は寒いね」制服姿の彼女のスカートの裾が風に少し揺れる。

 戸鞠のマンションの前に着きエントランスの入り口の大きなガラス戸が開き僕らはエレベータに乗る。そして又、僕は戸鞠の家の玄関の前に立った。

 これで彼女の家に来るのは2度目だ。1度目は予定外だったが……それを言えば今日もそうなのかもしれない。


 カードキーを差し込み暗証ボタンを押してオートロックを解除する。ガチャっという音がして戸鞠はその厚い玄関戸を開けて

「どうぞ笹崎くん」と、僕を招き入れる。「ただいまぁ」戸鞠が声を出すが、何の返事も返って来ない。


 ちょっと肩すぼめ僕を見た。

「とりあえず、居間のソファで休んでいて、今暖房付けるから」

 エアコンのリモコンを手してスイッチを入れ、続けてテレビのスイッチを入れた。


「私着替えてくるね。あ、それよりシャワー浴びちゃお。ちょっと待っててね」

「どうぞご自由に……」

 彼女はあの自分の部屋に入り着替えを持って急いでシャワー室へと入った。


 僕はやる事もなくただ流れてくるテレビの音声と画像を聞き流し移り行く映像をただ目にしていた。

 部屋もだいぶ暖まって来た。着ていたジャンパーを脱ぎどことなく落ち着かない、そして何となく鼓動するこの心臓が、次第に高鳴るような感じを少しづつ感じていた。

 しばらくして彼女がシャワールームから出て来た。

「お待たせ!さっぱりしたし、暖まったからもう気力全開! はぁ―、でも寒かったね外」

 そう言いながら僕の後ろから手を伸ばし、抱きついてきた。


 少し湿った彼女の髪から甘い香りが僕を包み込んだ。

「ねぇ、笹崎君……」そう耳元でささやき僕の後ろから彼女の顔が動き出す。

 そして……柔らかい唇が僕の口をふさいだ。


 拒まなかった。自然と僕は彼女の唇に重ね合わせる自分の唇を……。

 テレビの音声だけがなぜか鮮明に聞こえてくる。

 彼女の体が僕の目に滑り込むように乗りかかる。彼女の胸が僕の体に押し付けられ、その柔らかさと暖かさが伝わってくる。


 僕のその腕にちょっと力が入ろうとした時、彼女はゆっくりと顔を離し

「ねぇ、コーヒー淹れてくれる?」と小悪魔の様な微笑を僕に投げかけた。

 少しの間、彼女はずっと僕の瞳を見つめていた。


 その視線をそらし「分かった」そう一言言って僕は立ち上がった。

 二人でキッチンに入り、まずは鍋に湯を沸かす。

 そしてケトルにミネラルウォーターを入れ火にかけた。


「このお鍋のお湯何に使うの?」

 戸鞠はちょっと不思議そうにしていた。

「カップを温めるためのお湯だよ。後、ドリップは何処にあるの?」

 棚の中からドリップ一式が取り出され一緒にフィルターも出してくれた。

 そして「あっ」とちょっと声を出した。


「ごめん豆のままだった。豆惹きはないよね」

「ああ、そう言えばそうだった。ん! ねぇ、笹崎くんお料理用のミル(粉砕機)ならあるけど……それで何とかならない?」

「ミル? それで代用しよう」


「良かった。え――とね、確かここら辺にあったんだけどなぁ……あったあった!」

 ミルを見つけた時戸鞠は子供の様にはしゃいだ


「良かった。飲めないのかと思っちゃった」

「良かったね」その後ブレンドの袋とキリマンジャロの袋を開け、今淹れる分量だけをミルに入れた。無論キリマンジャロは少量ブレンドさせた。

 試飲した時ちょっと酸味が薄い気がしたからだ。多分深入りのローストが入っているからだろう。あれはあれで十分美味しいと思ったけど、ここはひとつ変化を付けたかった。


 ミルのスイッチを入れ、中で豆が粉に変わっていく。

「なんだかこうしていると二人で料理作っているみたいだね」


 戸鞠のその言葉がちょっと前の事を思い起こさせた。


 僕があのカキ鍋を作った日の事。恵美と一緒に、ほんの少しの時間だったけど、二人でキッチンに並んでいた事を……。


 少し胸の奥に生まれる罪悪感がその存在を、僕に何かを語りかけているような気がした。


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