第49話2.この想いをあなたに
寒い冬は長く続かない。いつまでも何時までもずっと続く事は無かった。
いずれ訪れる春に向かい、季節は確実に進んでいる。
今までの自分に向かう。そう季節が変わりゆく様に自分自身の心も変わりゆく。
「人はね、泣かないといけない生き物なの」
幸子さんが言っていた言葉。
僕は、その言葉を受け入れた。そして自ら涙を流し、泣いた。泣くことは決して恥ずかしい事じゃない。涙を流す事は、その心の中にある何かを解放してくれる。だから僕は泣いて初めて知った。
自分の本当の姿を。
自分の事は自分が一番よく知っていると思っていた。でも本当は自分の事が一番分からない。分かっているつもりでいた、ただそれだけだった。
強がってもいないと思っていた。意地も張っていないと思っていた。
本当の自分を今、そしてこれから表に出す。
本当の自分を表に出す事は、怖い。でも、それを今僕は乗り越えなければいけない時期に来ている。
僕自身の為に……そして、恵美の為に。
「おはよう笹崎君!」
「あはは、笹崎くんの寝顔って可愛い」
「駄目だぞう、そんなんじゃ女の子はいつも夢見ているんだよ」
一つの席が空白になっていた。
その空白になった場所を見ると彼女のあの姿が浮かび上がる。
その姿を思い出すたびに僕の胸は締め付けられる。締め付けられるその胸の痛みは僕への戒めの様にも思えた。
僕は彼女を傷つけた。彼女を受け入れた、それが例えどんな形であっても僕は彼女、戸鞠真純を受け入れたのは事実だ。
偽りの恋……そう言われても仕方がないかもしれない。
かたちだけの恋人……。
僕と戸鞠の関係は「かたちだけの恋人」だった。
でも彼女は違っていた。
戸鞠は本気で、本当に僕の事を好きでいてくれた。そして愛してくれていたんだ。その気持ちを感じながら知りながら僕の本当の気持ちは、何処にあるのかさえ分からなくなっていた。
そんな時、孝義は僕への戒めを、制裁を下したんだ。
孝義が愛する人の為に。
あれから僕は孝義とは口もきかない。目も合わせない。幼い頃からの付き合いなのに、今までそんな事は一度もなかった。でも今は違う。彼奴は僕を憎んでいるのかもしれない。
それならそれでもいい。憎んでもらえるだけましなのかもしれない。
その怒りを僕にぶつけてくれれば、僕はどんなにか楽なのかもしれない。
そう思う自分にいささか嫌気さえも感じる。
いま、孝義は戸鞠と連絡を取り合う事が出来るのだろうか?
もし……それが出来るのなら。でもやめておこう。今は孝義と戸鞠の間に僕が入る事はかえって戸鞠を傷つけてしまう様な気がする。
だけど、戸鞠にはきちんと向き会わないといけないと思う。その分、自分の気持ちも高ぶる。
その高ぶる気持ちを抑えるのには僕一人の力では、どうにもなりそうにもならない様な気がする。やっぱり、誰かの力、助言、支えがほしい。
しばらくぶりに訪れた雨宮さんの店。その扉を開ける時物凄く重く感じた。
「あら笹崎君、随分とご無沙汰じゃない?」
雨宮さんは僕の姿を見るなり、いつもと変わりなく言葉を投げかけてくれた。
少し照れながらも「ご無沙汰しています」と返す。
ご無沙汰と言っても2週間ほどの時間だ。何か月もここに訪れていない訳ではない。
この時間、店は空いていた。「久しぶりに淹れてみる?」
雨宮さんのその言葉に軽く頷いた。
いつも通りの手順で、注意すべき所は気を使い、力まず、ゆっくりと豆に湯を注ぐ。いつもと変わらない甘い香りがたちこめる。
ドリップが終わり珈琲カップに静かにそそぎ入れる。最後まで気を抜かない。それが鉄則だ。
淹れ終わったその珈琲を雨宮さんはカウンターの席に置いた。
「さぁ、どうぞ。自分で入れた珈琲だけどお召し上がりくださいな」
「ありがとうございます」遠慮することなく、カウンターのスツールに腰かけ自分で今淹れた珈琲を口にする。
柔らかい香りが鼻を抜け温かい珈琲が体に沁み渡る。そっとカウンターのテーブルに雨宮さんがサンドイッチが乗った皿を置いた。
「どうぞ、お腹減ってるでしょ。私からのおごり」
「済みません、雨宮さん」
「少しはお腹の足しにはなるでしょ若いからね。君は」
「ありがとうございます」
マスタードが効いたチーズとハムのサンド。美味しかった。
そんな僕を見つめながら雨宮さんは一言言った。
「笹崎君、何かあった?」
少しの間、すぐには声が出なかった。
「な、何でもないですよ」出来るだけの笑みで答えたつもりだった。
「嘘よね、さっき淹れたその珈琲、美味しい? 何かすっきりしないものを感じているんじゃない? 手順はしっかりしていた。でも何か迷いを感じた」
「迷い……ですか?」
「うん、何か悩んでいるような。そして吹っ切れていない様な、前の様に一つでも一歩でも前に進もうと言う意欲が感じられなかった」
さすがにプロの目はごまかせないと言う事だ。
その今持つ感情が僕の動きと、集中力をかけさせていたのを見抜いていたんだろう。
「真純ちゃんと何かあったの?」
ドキッとした。
そこまで見抜いていたのか。そう思ったが感の鋭い彼女に嘘は通用しないと思った。正直に話そうと思った。だが、予想に反し雨宮さんの方から話し始めた。
「この前ね、真純ちゃん駅で見かけたのよ。違う学校の制服を着ている真純ちゃんに。話かけようとしたけど、私の事避けるように電車に乗って行ったから、それも今までとは逆の方向の電車にね。私が知っている事はこれだけ、でも今日あなたがここに来て、サーバーするその姿を見て何かあると感じただけよ。もし、話したくなかったら話さなくてもいいんだけど、こんな私でも、あなたの力になれればと思って言ったまで。余計なおせっかいかもしれないけどね」
「おせっかいだなんて、そんな……」
一呼吸おいて僕はその重い口を開いた。戸鞠との事、そして恵美の事。僕がそんな中途半端な事をしてしまったばかりに、戸鞠の心を傷つけ、そして幼馴染の孝義の気持ちをも踏みにじってしまった事を。
「あなたはその事で後悔しているの?」
意外だった。幸子さんと同じ言葉が返って来た。
「ある人にも同じ事を訊かれました。後悔しているのかって」
「それであなたはどう答えたの?」
「僕は戸鞠に、真純に甘えていた。自分の気持ちの中にある本当の想いを押し込むために、その想いを自分に繋ぎ留めて置きたくて、僕は彼女に甘えた。そしてこの現実の中にいる自分に今僕は何をすべきかを……。僕は自分に自分の本当の気持ちを表に出していなかった事に、僕は戸鞠にも、恵美にもそして自分自身にも、もっと向き合わないといけない。今はそんな気持ちでいっぱいです。でもどうしたら自分にも向き合う事が出来るのかが分からない。ただ素直にすべてをさらけ出せばいいだけなのか、それとももっと別な何かが、僕に今かけているものを求めると言ったらおかしいですけど、確かに迷っています。どうやってすべての事に向き合えばいいのかと言う事に」
「ふぅん、なんだか笹崎君て偽善者っぽいね」
「偽善者って……」
「何もかも自分で背負い込んで、自分を動けなくしている様に見えるなぁ。それじゃ、この先の人生乗り切っていけないよ。君は……。君は優しすぎるんだよ。誰に対しても、そして自分に対しても」
なんだか雨宮さんの言葉は僕の心に痛みを感じさせた。
「やっぱり僕は甘すぎていたんだと言う事ですか?」
「う―ん、そう言うのとはちょっと違うんだよね。君は向き合うと言う事の意味、その本当の意味をまだ知らないんだよきっと」
向き合う為の本当の意味?
それは何だろう。僕が想う向き合う事とは何が違うと言うんだ。
「私さっき言ったわよね。珈琲をサーバしているあなたのその姿がいつもと違うって。向き合う事ってさ、その時だけその場だけ向き合えばいいって言うものじゃないんだよ」
向き合う事って言うのは……自分の想いを全て注ぎ込む事。
「この言葉は、私も今のあなたの様に迷い込んだ時があった。でもそんな私にこの言葉を送ってくれた人がいた。私はその人から送られたその言葉で、もう一度やり直す事が出来たような気しているし、やり直せたんだと思う。だから今も私はその言葉を決して忘れない。忘れてはいけないと思っている」
笹崎君、あなたに関わる。
そう、一番あなたに関係深い人から送られた言葉だった。
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