第75話20新たな風が吹くその瞬間に

 東北の地。

 日本の北には宮城、仙台市以北に行ったことは無かった。


 レンタカーを借り、東北道をゆっくりと、終わりゆく夏の空を眺めながら、……。もちろん安全運転第一である。

 北に進むにつれ、空の感じが東京とは違うことに二人とも何か懐かしさと。うれいとでも感じられるこの胸の中にたまりゆく気持ちが、少し物ぐるしい。


 フランスのあの晴れた日に広がる空の色。窓を開けると車内に入り込む風の臭いが、どことなく懐かしさを感じさせた。

 言葉には出さない。でも、僕らは多分二人共お同じ事をこの胸の中に潜ませている。


 政樹とミリッツアが結婚した。

 このことを恵梨香には教えないでおこうと思っていた。

 多分……。彼奴とはもう、音信不通。交流はないものだと思っていたからだ。


 政樹のことを、ミリッツアのことを。今では恨む気持ちはまったくない。

 恨むどころか、何か安心と言うか。そうなんだ……そうだよな。と、自分自身が不思議と納得していた。


 でも恵梨香はどうなんだろうか? 恵梨香の気持ちは今どこにあるんだろうか。

 その気持ちを確かめたい。


 今、僕にとって恵梨香と言う存在は大切な存在となっていた。

 失ってはいけない女性ひと。そばにずっといてほしい人。出来ることならばこれからの僕の生涯を共に過ごしていけたらと思える女性として、存在している。


 そんな彼女に、政樹とミリッツアのことを隠す。いや、これは僕の口から、彼女につたえるべきことだと思った。

 もしかしたら恵梨香は悲しむのかもしれない。

 だとしてもこれが現実であることを、僕はしっかりと彼女の気持ちを支え、見据えたい。

 だから話した。


「そっかぁ」

 恵梨香が一言返した言葉だった。


 意外と普通だった。そう見せかけているだけなのかもしれないけど。

 このことを知った恵梨香が、もしかしたら、僕の前から消えてしまう。そんなことを考えてしまう自分。その恐怖が怖かった。

 でもそれは僕の勝手な思惑と言うか、恵梨香のことをもっと信じてあげなければ、僕自身が恵梨香のことを信じていないというこれは証になってしまったようだ。


「どうしたの? 何そんなに怖い顔してんの? 太芽さん」

「こ、怖い顔って、そんな顔してる僕が?」

「うん、してるよぉ! とっても。なんか、私がどこかに行ってしまうんじゃないかって脅えているような感じだよ」

 ウっ! 返す言葉がない。まったくその通りなのだから。


「ほんとにもう! 私はもう、何処にも行くところがないのあなたが一番よく知っているんじゃなくて? それとも……迷惑? なの」

「ば、バカな! 迷惑だなんて」

「ほんと?」


「ほんとだよ。絶対に僕の傍に居てほしい。ずっと……。ずっと、ずっと。何時までも」


 そう言いながら恵梨香を強く抱きしめていた。

「痛いよ。苦しいよ。太芽さん」

 それでも僕は恵梨香を抱きしめる力を緩めなかった。


「わかったから。私はどこにもいかない。あなたを一人っきりにはさせない。何時までも……。あなたの傍に私は寄り添う。私をもっと信じて」

 ようやく我に返ったように、恵梨香を抱きしめる力を緩めた。


「大丈夫よ。私はどこにもいかない。しっかりとプロポーズされちゃったしね『絶対に僕の傍に居てほしい』ってね」

「あっ! それってプロポ……」

 プロポーズって。た、確かにそう言われても。でも、もっと雰囲気のあるところで、ドキドキしながら言う――――おいおい、こんな感情ていうか、こんなことを思い描くのは逆だろ。彼女の方が思う事じゃねぇのか? 意外と乙女だったか……。俺って。


「違うの? もしかしてプロポーズの言葉じゃなかったの? 私の早とちり?」

「……その、なんて言うか。ですね。――――そうです。け、結婚してください! 僕と」

 雰囲気もふっとんだプロポーズ。こんなんでいいのか? 本当に?

 勢いで言った『結婚』と言う願い。

 こんなんでいいんだろうか? なんか政樹みたいだ。


 彼奴だったら多分こんな感じで、ミリッツアに申し込んだんじゃないのか?

 気になるところだ。

 そして彼女からの返事が気になる。


 彼女の瞼が大きく開き、その中で輝く瞳が僕の顔を映し出していた。

 綺麗な瞳だった。純粋に。

「……あのぉ、それで……」

 まさか。


「うん、こんな私でよければ。言ったでしょ。ずっと、ずっとこの命が絶えても、あなたの傍に居るって。だからよろしくお願いいたします。――――パパ」

「へっ?」

「へって何よ!」

「あのぉ……。最後に言ったパパって?」


 恵梨香は顔を少し赤くさせて。

「だから、パパなの。太芽さんはパパになったの」

「へっ? パパ」

「もうじれったい。太芽さん。あなたの子供。このおなかの中に出来たのよ」

「本当なのか?」

「本当よ。だから、これが私からあなたへのプロポーズ。お返事いただけますか?」

 真剣な顔で恵梨香は僕に問いかけた。


「本当にいいのか?」


 指輪も何もない。

 プロポーズの場所は僕のこの狭い部屋の中。


 ただ。その日は……。

 心地いい風が吹いていた。



「大丈夫か? 恵梨香。次のサービスエリアで休憩しようか」

「うん、大丈夫よ。まったくほんと心配症なんだから。それよりあなたの方が疲れているんじゃないの? 運転。最近してなかったんでしょ」

「まぁね。日本に帰ってきてからは、車運転することは無かったからなぁ」

「やっぱり次のサービスエリアで休憩しましょ」

「そ、そうだね。安全第一」

「うふふ。もうしっかりパパの顔になちゃってる」

「あ、当たり前じゃないか……。そんなこと」


 恵梨香は自分のおなかをさすりながら「もう少しで着くからね。あなたのお爺さんとおばあさんのお墓に」

 お互いのプロポーズを交わし。ただそれだけの二人。

 まだ挙式すら行っていない。それを言うなら、指輪も交わしていない僕らは、恵梨香の両親が眠る墓石に報告に行くことにした。


 僕の親。物心ついたときには僕の前には存在していない親の墓石はいつでも行ける。それよりも先にまずは、恵梨香のご両親にご挨拶を兼ねて墓参りをしたかった。


 東北の北の方。未開拓の地。

 新たな土地への訪問。

 それはこれから巻き起きる。僕と恵梨香の新たな人生の始まりでもあったんだろう。

 彼女の故郷の地に降り立った時、何かが僕の体の中を駆け巡っていったような気がした。


 この感じ。前にも感じたことがある。

 そう、フランスの地に初めて降り立った時と同じような感じがした。


 もうじき夏が終わろうとしていた。

 暑さの中に秋の気配を感じさせる。

 それがどんなものなのかと言う事を言葉にしろと言われても難しい。ただ、体が感じていた。


 墓石に花と線香をたむけ、静かに手を合わせた。

 近い未来この世に生まれてくる子のこのためにも。僕は。恵梨香を守ります。

 そう合わす手に誓った。

 陽が傾き、赤い空が広がるこの景色を背にしながら。


 そのあと、恵梨香の親戚にあいさつに行くことになっていたが、先方から断られた。

 全てを失い。すべてを断ち切られた故郷。

 そう、恵梨香にとってこの地は、この墓石とのつながりしかないのだ。



 車を走らせ、ホテルに向かう途中。

 暗がりに満ちた夜空に、大輪の華が咲き輝いた。


 車を止め、夜空に次々と舞い上がるその輝く華を眺め。

 あらためて僕は言う。


 恵梨香。


 結婚しよう。そして、幸せになろう。……と。

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