第74話19新たな風が吹くその瞬間に

「ただいま」

「おかえりなさい太芽さん」


 にっこりとほほ笑む、彼女のその顔を目に入れると心が和む。


 日本に帰ってきた頃のすさんだ心が嘘のようだ。何か満たされたというのだろうか。そう、僕の傍に誰かいる。僕のすぐそばに誰かがいてくれる。僕を待つ人がいてくれるという安心感。


 ミリッツアが傍にいてくれた時とは違う、言葉にはうまく表現が出来ないけれど、温かさがある。

 これが家庭の温かさと言うものなのだろうか。


 家庭と言うものを知らない。知らずに育った僕だ。もちろん幼少のころ育ててくれた祖父母は優しく愛情を出来る限り投げかけてくれたとは思う。だが、本当の僕にとって意味する家庭の温かさと言うものは何かが違っていたというのは、ずっと心の奥底にひそめていた。


 それがこの何気ない一言の会話の中にすべてが、含まれているような気がする。


「どうでした。楽しかったですか?」

「ま、まぁね」

 恵梨香はにっこりとほほ笑んで「それはよかったね」と言った。

 その笑顔に胸が熱くなり、抑えきれなかった。

 気が付けば、僕は。

 恵梨香を抱きしめていた。


「今日さ」

「ん? どうしたの今日」

「みんなに知られてしまったよ」

「何を?」

「君と一緒に暮していることを」


「そっかぁ。後悔している?」

「……別に」

「ちょっとだけ、返事に間があったけど。本当のところはどうなの?」

 抱きしめる彼女の髪から、甘くそして優しい香りが漂う。


「恥ずかしかったかな」

「どうして?」

「誰にも知られたくはなかったから。君が僕の傍にいてくれるていうことを。君は。恵梨香は。僕だけの傍にいてほしいから」

 恵梨香の体が急に熱く感じてきたのは気のせいだろうか。


「……馬鹿。なんかすごく恥ずかしい」


「だろう」


「うん。でね、太芽さん。お酒臭いんだけど」

「へっ?」

「もう、太芽さんだけ、お酒飲んでなんかずるい。私も飲みたくなってきちゃった」

「じゃぁ飲もうか」

「うん、あのワイン開けてもいい?」

「ああ、いいよ」


 恵梨香が今働いているカフェの店長から、偶然にもこのワインのことを聞かれ、仕入れてみたいということを言われた恵梨香は僕にそのことを相談した。

 そのワインとは。


 そう、恵梨香がカヌレを焼いていた、あの店のオーナーが営むワイン醸造所のものだった。

 恵梨香が直節オーナーへ連絡をすれば輸入は出来たかもしれない。そして僕がフランス支社に連絡を入れれば、現地で買い付けをしてくれただろう。

 でも僕らは自分たちでは動かなかった。


 恵梨香から相談を持ち掛けられ、今はもう僕の部署ではない食品部の主任、宮村隆浩みやむらたかひろ。彼に国内で扱っていないか相談を持ち掛けた。

 宮村は快くその依頼を受け、難なく探し当ててくれた。


「しかし、さすがですね。よくこのワインの銘柄をご存じでしたね。ほとんど日本には出回らない希少価値の高いワインですからね。現地フランスでもなかなか手に入らないものらしんですよ」

「そうだったんですか。なんか苦労をおかけしてすみませんでした」


「いえ別に。フランス支社に問い合わせてみたらすぐに紹介していただいたので。それこそ、笹崎さんが直にフランス支社に問い合わせ出来たんじゃないんですか? かつていたところなんですから」

「いや、僕はもう食品部じゃないですからね。テリトリーを犯したら、良くないでしょ」

「律儀ですね」

 そう言って彼はつぶやいた。


「そうだ、もうご存じかもしれませんが、フランスの支社長から聞いたんですけど。『レーヌクロード』の三浦政樹さんが、ご結婚されたそうですね」

「えっ!」

 驚いた僕の表情を見て宮内は。


「もしかしてご存じなかったんですか? かなり親しい間柄だったとお聞きしたんですけど」

 いつぞやの、まずいことを言っていしまったという、彼の表情をまた見ることになるとは。


 とっさに「そうみたいですね。最近ずっと疎遠でしたんで。でも連絡はもらっていましたけど、結婚式にはいけませんでしたよ。フランスですからね」

 そう言ってごまかしたが、たぶん彼は僕が嘘を言っているのをそれとなく感じていたのかもしれない。


「そうでしたか。そうですよね。フランスは遠い。おいそれとは行けるところじゃないですからね。それに、何でももう奥さんは女の子をご出産されていると言う事でしたけどね」

 付け加えられたそのことも、まったく初めて聞くことだ。あのミリッツアが正樹との子を産んだ。

 もう立ち直っていたと思っていた気持ちが一瞬揺らぎそうになった。


 あれから僕らは。政樹とはあのエアメールを受け取ってから、返信も何も送っていない。

 政樹からも結婚の案内と言うか連絡も来ていなかった。

 もしかしたら、あのエアメールがそう言うことの意味を持たせたものだったのかもしれないと冷静になった時感じえたことは今に、振り返ればそうなんだという確信につながった。



 ワイングラスに恵梨香が、ワインを静かに注ぐ。

 この話を聞いたのは一か月前の事だった。

 恵梨香にはそのことを話していない。

 そっと僕の胸の中だけにしまっておこうと思っていた。


 彼奴も幸せならそれでいい。そして今、僕と恵梨香はその幸せと言う感情をお互いに確かめ合うように、寄り添っているのだから。

 ワイングラスに注がれた赤くされど、濁りのない。いわば今の僕の感情をこのワインに例えるなら、「汚れのない気持ち」とでも言えるのかもしれない。


 軽く口に含むと芳醇な果実の酸味と渋み、そして香りがあの思い出の地。

 フランスの空を思いおこさせた。


「どうしたの。思い出しちゃった?」

 恵梨香がそっと肩を寄せ、僕に囁くように聞く。

「そうだな」

 一言だけそう返した。


 夏の風が、夏の臭いがした風が部屋に流れ込んでくる。

 その風に誘われるように互いの唇が触れ合う。その触れ合いが、二人を繋いでいるんだということを新たに感じさせてくれた。


 宮村から、政樹のことを聞いた。その時から、僕の気持ちはおのずと決まっていた。固まったんだと思う。そしてこの安らぎと言う幸せな空間を、今かみしめている自分に酔いしれている。このワインを口に含むたびに。……恵梨香を。ミリッツアに抱いていた、あの愛しい想いがすり替わるように膨らんでいく。


 恵梨香にはもう何もない。

 両親も、兄妹もいない彼女にとって頼る人は誰もいない。

 まして、残されたものはすべて、父親の死と共に無くなった。


 生まれた故郷を追い出されるように失い。僕と政樹との仲を壊さないように僕にこの日本で出会い。

 恵梨香はその役目を果たした後。僕の前からもその姿を消そうとしていた。

 だが、僕は 彼女の手を取り僕自身が引き止め、僕のところに留めさせた。


 それは間違っても正樹に対する当てつけでも、復讐でもない。

 純粋に、あの時恵梨香の手を離してはいけないと思ったからだ。あの判断は間違いではなかったと自分に言い聞かせている。

 まだどこかで……。彼奴に。政樹に後ろめたさを感じているからかもしれない。


 八月。総務から散々言われている有給の消化をお盆休みが明けてから取得した。実際この辺りは業務もさほど忙しい訳でもない。

 新人であった山岡昭やまおかあきら長崎愛佳ながさきあいかも今ではもうオフィスの中では浮足立っている様子も見られないほど業務もこなせるようになっている。最も、そう言う自分もそんなにたいそうなことは言えないのだが。


 実際僕が数日。いや、もしかしたらいなくとも、この部署は何ら問題なく稼働できるのではないと思うほどだ。



 取得した有給を利用して僕と恵梨香は、北へと向かった。

 二人でこうして、旅をするのは初めてのことだ。



 そう、僕らは今、恵梨香の故郷に向かっている。

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