第45話4.求める人に
やわらかな日差しの中、房総半島の海が吹き付ける風は何となく柔らかさを感じる。
およそ半年の時間、僕の時間はめまぐるしいほどに廻っている。
振り返れど、その時間は僕の心をただ単に悲しみと苦しみへと導く想いしかないと思っていた。
……でも、僕は思う事がある。
人は一人では生きてはいけない。人は一人で生きてはいけないと言う事を……。
裏庭を通りあの作業場の建物の扉を静かに開ける。
あの時と同じ光景が僕の目に入る。
棚の上に整然と並ばれている楽器の部品に、その器具。
窓辺にふと目をやると、それはあの時の様に陽の光を浴び、
そのバリトンを目にした時、僕の目は、いや僕の躰が止まった。
まるで僕を包み込む様なそんな感じがするこの楽器。
柔らかく、そして暖かい輝きが僕を導くくかのように、そのバリトンは僕を導こうとしていた。
思わず手が出そうになった時「結城じゃないか」と奥の方から野太い声が聞こえて来た。白髪の髭を伸ばしたその人は、僕の姿を見てとても懐かしむような声だった。まるで自分の息子が本当にしばらくぶりに、自分の前にまた現れてくれたかの様な慈しみの声だった。
そしてその人はまたいう。
「そのバリトン気になるのかい?」と、まるで僕の心の中を全て見えているかのような言葉だった。
そっと棚からマウスピースを僕の手に握らせる。
「吹いてごらん」その表情は優しく、そして何かを試そうとしている気さえも感じさせた。
あの時、僕に彼は同じように「吹いてみるかい」と尋ねたが、僕は断った。でも……今は体が自然とその楽器に手が伸びていた。
なぜだろう。今のこの僕の心は戸鞠の事で暗い影に覆われている。それでも僕の体は、僕の心はその楽器に向かおうとしている。
中学の時の想いが込み上げてくる。僕が大好きだったユーフォニアム、あの楽器の奏でる音、のびやかな音、そして先輩たちから受けた陰湿な虐め。
一瞬にして僕の心の中を駆け巡る。
その陰に、戸鞠の姿が浮かび上がる。そして彼女の後にあの僕の天使、恵美の微笑みが僕を包み込んだ。
そっとケースからバリトンを取り出しこの手に、躰にその重みを感じマウスピースを付け口元に付ける。
軽く息を吸い静かにゆっくりとスラーを奏でる。
バルブを全て解放し、何もかけずにただ、僕の音を返すそのバリトン。
体全身にその音が伝わりこの部屋中にその音が響き渡る。
懐かしい、この振動、懐かしいのびやかな音。
「うん、いい音だ。外に出て吹いてみなさい」
言われるままに、作業所から出て中庭の真ん中で僕は、このバリトンに向き合う。
不思議な感じがする。初めて吹くこのバリトンの暖かさを僕は感じた。そして厳しさも……。人をよりつけがたい、重い感情にも似たその感覚が僕を襲う。
このバリトンは人を撰んでいる。
自分をよりよく表現できる奏者を見極めている。そんな感じがする。
ゆっくりと息を再び吹き込む。確かに音は出る、でもその音は単なる音にしかすぎない。人の心の中に何かを残す事のない単なる音。
「結城、周りだけに取らわずに自分自身をさらけ出すつもりで、このバリトンに向き合いなさい」
僕のその音の迷いを感じたんだろうか? 彼は助言する。
向き合う……、向き合う事を恐れている今の自分、僕は向き合う事を全て拒絶している。戸鞠の事、そして恵美の事、何より自分自身に向き合う事を今僕は拒絶している。
バルブを軽く押してみる。滑らかな滑りご心地が僕の指に返る。何となく今まで重く感じていたこのバリトンが軽く思えてくる。
ゆっくりと自分の気持ちを落ち着かせながら、あの感じを思い起こさせる。吹奏楽と言ういや、全ての楽器の音が重なり合うあの瞬間を。
少しの間、その輝くシルバーバリトンを見つめ、僕は再びマウスピースを口に付けた。
静かに息を吹き込み、返る音をこの耳で聞きながら……。
僕がいつも吹いていた練習用の曲。
不思議としか言えなかった。吹くたびにざわめいていた心の中が静けさを取り戻していくこの感覚。
懐かしさよりも、今のこの新鮮さの新しい道が開けるような感覚が僕の躰全身を包み込む。
そして、このバリトンが僕を試そうとしているのを感じる。試そうとしている? いや、そうではない。誰かが語り掛けているようなそんな感じがする。
「あなたはこの音を誰に届けたいの?」と
誰に?
誰にだろう。僕は今吹いているこの音を誰に届けたいんだろうか。その問いに、その答えはまだ見つけられない。
でも、想いを届けたい人はたくさんいる。
僕が中学時、吹奏楽部を辞めた時、母さんはとても悲しい顔をして僕を抱きしめてくれた。
その理由もすべて母さんは知っていた。だから僕を慰めるように抱きしめたんじゃない。僕が大好きだったユーフォニアムと向き合う事を止めた事に母さんは悲しかったんだと思う。
僕が向き合う先それは、自分自身である事に、このバリトンは教えてくれたような気がする。そう今は誰の為でもなく自分自身の為に、この音を届けたい。
そう思った時、何だろう? 今まで何かに押されていた、とどまっていた響く音は空へめがけてのびやかに音の矢となって舞い上がる。
軽い。そして響く音が心地いい。僕の中にその音が返る度に僕の意識は別の世界に引き込まれるような感覚にとらわれる。
このバリトンが引き寄せるかの様に、その光景は僕の目に浮かぶ。大きな舞台で大勢の奏者が一つの音を追い求めるその姿と想いを……。
吹き終えると僕の傍から二人の拍手が静かに聞こえて来た。
「ありがとう、結城。このバリトンは君を受け入れてくれたようだ。彼女のあの音色がまたこのバリトンから聞こえて来たよ。頼斗の母親の魂はこのバリトンの中で今も生き続けている。このバリトンはずっと求めていた。いや待っていたんだよ。この中に込められた思いを解放してくれる人を」
「……うん、そうね。あなた。あなたの言う通り。このバリトンはずっと待っていたんだと思う。結城の事を……やっぱり私の目に狂いはなかったわ。結城は音楽の、この楽器がとても好きな子だった。どうして吹くのを辞めたのは聞かないでも、貴方は今このバリトンを吹いて思ったはず。自分に何が必要かを感じ取ったはず。無理をし過ぎているのよあなたは……結城」
幸子さんは僕を包み込むように抱きしめた。
「頼斗さんからすべて聞いている。今、結城が辛い立場にいる事も。そしてこの半年間どんなに寂しくてもどんなに辛くても、それを絶対に表に出さないでいる事も。もう……いいよ。我慢しなくていいんだよ結城。恵美ちゃんを想う気持ち、そして響音の事、貴方はその前にもっと感じるべきことがあるはず。結城、貴方は自分の悲しみを素直に受け止める事をもう一度感じるべきよ」
「幸子さん」
その一言のあと僕の目からは止め度もなく涙が溢れ出て来た。
「うん、泣きな。うんと泣きな。人はね、泣かないといけない生き物なの。そしてそれを教えてくれたのは、結城あなただった。私は分かっていたつもりだった。でも本当は、私自身が一番気付いていなかったことを。過去の悲しみを自分で背負いそれを押し殺して生きて行くんじゃなく。その悲しみを素直に受け入れる強さを持つことが生きると言う事だったんだと。あなたはこの私達に教えてくれた。まだ本当に響音のことの悲しみに負けないとは言えない。でも私はその悲しみを全て受け入れる事が出来た今の自分に、今の自分の心に強ささえも感じ始めて来た。だから今度は私達が結城の悲しみを一緒にそして、あなた自身がその強さと立ち向かう勇気を受け入れられるように援けてあげないといけない」
「あ、ありがとうございます……僕は、僕は……」
戸鞠の事を口にしようとした時、幸子さんは言った。
「今は何も言わずに、あなたの涙を全て流し切りなさい」と……。
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