第54話7.この想いをあなたに
知らないと言ってほしかった。
頼斗さんは何も知らないと言ってほしかった。
「そうか知ってしまったんだ」
その一言が私の目を揺らぎさせた。涙がとめどもなく出てくる。
触れてほしくなかったこの想いに、ずっと私一人だけが大切にしまっておきたかったこの想いが一度にあふれ出てくる。
「どうして、あなたも知っていて私に隠していたの? どうしてユーキが響音にぃの事知ってるの? 誰、誰よ。響音にぃの事ユーキに話したのは」
「恵美、それを訊いてお前はどうするんだ。彼奴に響音の事を話した奴を恨むのか。それに結城はお前にその事を今まで、何も触れてはいないはずだと思うんだが」
「何故、あなたがそう言えるの? も、もしかしてユーキに響音にぃの事話したのあなたなの」
「そうだ。俺だ」
「うそ……。信じていたのに。私の気持ちを一番理解してくれていると思っていたのに。どうしてそんなことするの。響音にぃは私のすべてなの。大切な私の一番大切な人なのに」
彼の声はそれから少しの間途切れた。その時、静かに流れるサックスの音色が聴こえていた。どこかで聞いた事がある曲のフレーズが私の耳に静かに入る。
You raise me up(ユーレイズミーアップ)
「この曲聴こえているか」
頼斗さんは静かに語り始めた。
「懐かしいだろ、アルトだけの演奏は。俺らがこの町を離れる最後の日に、お前と響音が一緒に俺に奏でてくれた曲だ。そして響音がアルトを吹いた最後の曲。あの時が最後だった。響音のアルトの音を聴いた最後の曲だ。お前にとっても忘れる事の出来ない曲じゃないのか」
響音にぃと最後に吹いた曲。
あの時すでに響音にぃは、もうサックスを吹くことが出来ない事を知っていたのかもしれない。だからこの曲を選んだのだろうか。
もう、私の傍にいる事が出来なくなることを知っていて。
最後に私に言った言葉。
「僕は恵美がいたから頑張って来れた。どんなに辛くても。傍にいてくれていてありがとう。僕がいなくなっても恵美はこれからたくさんの幸せを……。今度は恵美をいつまでも支えてくれる人と幸せになってね」
静かに曲が終わり、静まり返ったスマホからは何も聞こえなくなった。
「覚えているか恵美。響音がお前を突き放した日の事を。本当はそんな事したくはなかったんだろう。でも、響音はお前を自分から遠ざけようとした。それは何時までも自分に、彼奴に恵美がしがみつくのを終わらせるためだった。いや、もしかしたら響音がお前にしがみつくのを断ち切ろうとしたんだと思う。自分がいなくなったあと、一人で歩いていけるように。でもお前は何時までも響音の姿を追い求めた、もうこの世に存在しない事を知りながら。あんなにボロボロになりながら。それでもお前は今、自分で立ち上がろうとして来ていた。どうして前に進めるようになれたと思う」
私は何も答えなかった。答えたくなかった。
「お前のサックスは、誰の為に奏でているんだ。響音の為か? そして一番お前の音色を聴いてくれていたのは誰なんだ」
私は誰の為にサックスを吹いていたのか……。
響音にぃに聴かせるため……。
もういない人の為に私はあのアルトサックスを奏でていたの。
その私を、その音を一番聴いてくれていた人。
ユーキ。
あなたは私と一つ屋根の家で暮らす様になって、私をずっと見守って来てくれていたの。
ううん、その前からだったよね。あなたが私のアルトを聴いてくれていたのは。
ずっと今まで、あなたは私のアルトを聴いてくれていた。
そう、あなたはずっと。私の傍にいてくれた人。
私は知らない間にあなたに支えられていたのかもしれない。
あなたは、私の中にある人の事を知りながら、それでもずっと私の傍にいてくれたんだ。
「お前の辛い気持ちは分かる。だからと言って、俺はその気落ちに何かをしてやれるだけの力はない。響音はもういない。その事実は俺にとっても辛いことだ。でも、そこで立ち止まっている事の方が俺はもっとつらいと思う。響音も、それはお前には望んでいない事だと思う。彼奴の本当の願いをお前は聞いているはずだ。そして、その願いを果たす事が響音にとって、一番お前の想いを伝える事になるんじゃないのなか」
私の想い……。
そして、響音にぃの想い。
響音にぃの想いは、願いは。
私がまた幸せになる事。
急には出来ない。すぐに切りかえる事なんて出来ないよ。
こんなにいっぱい私の中にいる響音にぃを消しちゃうなんて。そんな事で来ない。
でも……。私は少しづつだけど、響音にぃの事を乗り越えたいと思うようになった。それは私の奏でるアルトを聴いてくれる人がいるから。
私が奏でる音は悲しみだけの音だった。
それが少しづつその音が変わってきているのは自分でも感じていた。
誰の為に、その音色はなり続けるの?
私のすぐそばに居て、いつも私を想っている人が今、苦しんでいる。
一つの壁を乗り越えるために。
私は響音にぃとの約束を果たすために、少しづつだけど前に進もうとしている。それでも今のままではいけない。そんな事は分かっている。
変わらないといけない。思う気持ちが私をまた縛り付ける。
「もうどうしたらいいのか……分からない」
涙が止まらない。涙が溢れ出てくる。泣ける自分がいる。
泣けなかった、泣くことを拒み続けていた自分が、泣いてはいけないと思う自分が今壊れ始めた。
離れていく私の想い。私から離れていく人たち。
一人っきりになる事への寂しさを私はずっと隠してきていたのかもしれない。
でも、私のすぐ傍にいる人の事を私は気が付きながら、気が付かない様にしていた。あの寂しさから逃れる事を拒んでいたのは、その寂しさに浸っていたいと思っていたのは自分自身だから。
「恵美、今一つ言える事は、結城も、お前も、そして俺も同じだと言う事だ。最愛の人を亡くした事の気持ちからは逃れる事は出来ない。それでも……それでも、人は前に進まないといけないんだと言う事を」
「そんなの分かっている。でも、どうにもできないの。この想いを消してしまうことはできない。寂しい、寂しすぎる」
泣きながら通話を切った。
まだ冷たい夜風が私の体をすり抜ける。冷たい風が私の心を閉ざすように。
あれからどれくらいの時間が経ったんだろう。
目の前にある自販機から缶コーヒーを買って手にした。
温かい。
その温かさが体にしみる。
コーヒーの香りと共に浮かび上がる結城の姿。
どうして、あなたは響音にぃの事を知りながら、それに触れようとはしなかったの?
それがあなたの優しさなの?
だとしたら、私はあなたに物凄く甘えていたのかもしれないね。
自分だって、辛い思いをしたばかりなのに。それに生活だって変わったと言うのに。
なんだか私だけ一人が、取り残されたような寂しい気持ち。
ねぇ響音にぃ。
逢いたいあなたにもう一度だけでいいから逢いたい。
「僕も逢いたいよ恵美」
何処からともなく聞こえてくる響音にぃの声。
「恵美、恵美」
いつの間にか私は寝ていたんだろうか。静かに目を開けるとそこに映し出されたのはユーキの姿だった。
「こんな所で何してるんだ恵美。また具合悪いのか?」
心配そうに私の顔を見つめるユーキの姿が響音にぃの姿に見えてくる。
抱き着いたその姿に。
力いっぱいしがみついた。
「響音にぃ、響音にぃ」うわごとの様に私はその名を言っていた。
「恵美……、しっかりしろ恵美」
響音にぃ……。その姿をもう一度見ると目に移るのは響音にぃの姿じゃなかった。
そこにいたのは結城。私の目に移るのはユーキの姿。
「どうしたんだ」
「ユーキは、いつから……あなたは何時から響音にぃの事知っていたの」
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