第58話 幸福な祝福
思い思いに踊る者たちがホールに鮮やかな花を咲かせ、ファーストダンスを終えてひと息ついた者たちは、会場のあちらこちらに集って会話に花を咲かせている。
受付を済ませたイェリナとセドリックは、談笑している者たちの間を縫うようにしてホールの中心へ向かった。
「ねぇ、ご覧になった? サラティア様の優しい笑顔! 本当に素敵だったわ」
「知ってらっしゃる? ビフロス様の微笑みは、あのバーゼル様が引き出したものなのですって!」
「そうなの? ビフロス様って、歩くマナー
令嬢たちが集う輪の側を通りがかったとき、そんな会話がイェリナの耳に飛び込んできた。
——えっ。……え? 二日くらい前の噂と真逆すぎない?
イェリナがイザベラと話をつける前までは、イェリナもサラティアも散々な言われようだったのに。
なにが起きているのかわからない。イェリナはダンスを踊るのとはまた違った緊張感で、ゴクリと喉を鳴らした。
「それに、カーライル様! あの方もバーゼル様とおられるときは、それはそれは眼福もののお顔をされているとか……」
「まぁ……! 相思相愛なのね! なんて素敵なお二人でしょう!」
「でしたら、カーライル様がバーゼル様と結ばれても……よいのではないかしら? カーライル様もご卒業後は子爵位になるのですから」
「ええ、そうですわね。……ふふ、わたくし達、今までどうして反対していたのかしら。相思相愛のお二人を引き離そうだなんて、どうかしていたわ!」
また別の令嬢集団の側を通ったときも、同じであった。
今まで不釣り合いだ、身分差を考えたほうがいい、だなんて冷たく囁かれていたというのに、この変わりよう。
「……セオ、これはもしかして……」
「僕が手を回した部分もあるけれど、大半はアドレーの工作かな。多少、マルタン家の世論操作術も効果を発揮しているようだけれど」
「な、なるほ……ど?」
セドリックとは気持ちを通じ合わせただけで、この先のことなんて、まだなにも決まっていない。
イェリナがひとり勝手に、眼鏡事業で爵位を獲得してセドリックに見合う人間になるのだ、と息巻いているだけ。
それなのにどうしてか、外堀を埋められているような気がしてならない。
——これが高位貴族のやり方……。つ、ついていけるかな?
いや、ついていかなくてはならないのだ。と、
今、イェリナの隣に立つひとは、カーライル大公子息セドリック・カーライルだ。
そして、未来の石油王。イェリナがセドリックを石油王にするのだ。セドリックとその領地と、そして眼鏡のために。
すると、今まで流れていた曲がちょうど終わり、楽団が次の曲目の準備に取りかかる。
「行こう、イェリナ。早く君を見せびらかしたい」
「せ、セオ!?」
なにを言っているの、と抗議する間もなくセドリックに手を引かれたイェリナが、
タタラを踏んで、カツ、と
滑らかで優雅な三拍子。
イェリナはすぐに姿勢を正してセドリックとともに踊りはじめる。
スローテンポではなく、アップテンポな曲調に合わせてステップを踏み、ターンする。セドリックのリードでくるりと回り、伸びやかにワルツを踊る。
「驚いたな。僕について踊れるなんて、イェリナは凄いね」
「学年主席の実力を舐めないでください、セオ。……ふふ、でも、こんなに楽しいダンスははじめてだわ!」
しなやかに身体を動かすことの楽しさを感じてイェリナが破顔する。
柔らかく細めた視線の先、セドリックの肩越しに、イェリナはイザベラの姿を見つけた。
イザベラが踊っている相手の顔は見えない。けれど、紫色を基調とした小さな
そんか王太子殿下と踊るイザベラの目は、真っ赤であった。もしかしたら
けれど今は嬉しそうに、幸せそうに微笑んでいるのが見える。
「……イザベラ様は、婚約者の方とお話できたのね」
「イェリナのお願いだからね。今朝、殿下を叩き起こして説教した甲斐があったかな」
「せ——!? ……セオは時々、過激なことを言いますね」
「そうかな? でもイェリナには言わないよ」
「知っています。セオはわたしに甘いから」
クス、と笑ってターンした先では、サラティアがアドレーと踊っている姿が見えた。
イェリナはサラティアに、眼鏡の設計図を手に入れたことを報告していないことを思い出す。
初代大公ダグラスから受け継いだ麗し眼鏡の設計図を見せるか、それとも、イェリナ自作の眼鏡様を設計図に書き起こしてから見せるか。まだ迷っているところである。
「アドレーは無事、サラティア嬢と踊れたようだね」
「そうですね、すっごく嬉しそう。……アドレー様じゃないみたい」
「アドレーはサラティア嬢のことになると、よくも悪くも暴走する。アドレーは優秀な男だ。アドレーの判断はサラティア嬢が絡まなければ、いつも正常で正当で説得力がある。僕の次に頼りになる男だよ」
「……どうしてそんなことを言うんですか?」
「決まっているでしょ。僕がこれからイェリナに求婚するからだよ」
「えっ。……え?」
突然宣言されて驚いたイェリナはステップを踏む足を止め、幻覚眼鏡が浮かぶセドリックの顔をまじまじと見た。
ちょうどそのとき、
セドリックがその場に片膝をつき、イェリナに片手を差し伸べていたから。
貴公子然とした麗しの大公子息が、着飾って美しくなったとはいえ田舎貴族の男爵令嬢であるイェリナの前で
これからなにが起こるのか。周囲がザワザワと騒めきだした。イェリナの心臓だってうるさいくらいに高鳴っている。
その騒めきを静めるように、セドリックがわざとらしく咳払いをひとつ。それから真剣な眼差しでイェリナに向かって微笑んだ。
「イェリナ・バーゼル嬢、僕の祝福、僕の愛。どうか僕と生涯の愛を結んで欲しい」
イェリナを熱く見つめる
——本当に、どうして肝心なときに弱気になるの、セオ。
揺れる黄緑色の目を見つめながら、イェリナは目の前のセドリックを愛おしく思う。
そして、可愛い、と。男性だとか年上だとか、そんなことは関係なく、ただ「可愛い」と。
だからであろうか、セドリックの顔に浮かぶ幻覚眼鏡の輪郭が薄れてゆく。輪郭を保てずに霧散した。
その消えた幻覚がイェリナの心を証明していた。
だからイェリナはにこりと微笑んだ。淑女の笑みではなく、心の底から幸せが滲み出たような微笑みで、
イェリナはこの一週間の出来事を振り返っていた。
はじめは幻覚眼鏡に惹かれ、進級のための必修単位のためにセドリックを捕まえた。
けれど、セドリックと過ごすことでサラティアに出会い、はじめての友人になってもらえた。
アドレーやイザベラには厳しい貴族社会の洗礼を受けたけれど、今になってはいい思い出だ。今や彼らはイェリナの頼もしい友人なのだから。
イェリナの物理眼鏡は壊れてしまったけれど、眼鏡普及という輝かしい未来へ繋げることができたように思う。
セドリックと出会って一週間。短いようで長く感じる密度の高い一週間だった。
なにより、眼鏡を通さずにひとを愛することができるようになったのだ。
イェリナは照れたようにはにかんで、重ねたセドリックの手をきゅっと握る。
「セオ、愛してる。わたしに生きる希望をくれたひと……!」
素直に
いつの間にか宙をクルリと回って気がつけばイェリナはセドリックの腕の中。横抱きにすぽりと収まり、イェリナが目を瞬かせていると、
「愛してる。愛してる、イェリナ!」
と。額をぐりぐり合わせ、黄緑色の美しい目を喜びで揺らしたセドリックが、宝物を抱くようにイェリナをぎゅう、と抱き寄せた。
パチ、と手を叩いて祝福したのは誰が最初か。
それが呼び水となりまばらな拍手が次第に大きくなってゆく。
思いもよらぬ盛大な祝福を受けたイェリナは、セドリックの腕の中で自分が愛する眼鏡の神に感謝した。
イェリナが恋した幻覚眼鏡は、イェリナの未来もセドリックの未来にも等しく祝福を与えてくれたのだ、と。
〈了〉
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