第2話 眼鏡なき世界で生きてきた

 イェリナ・バーゼル男爵令嬢は、狂おしいほど眼鏡を愛している。


 だから、廊下の真ん中で冷たい視線や淑女の悲鳴を浴びたとしても、心的ダメージは軽症だ。



 ——眼鏡さまが振り返ってくれない……振り向きざまの眼鏡角度を拝みたかった……。



 イェリナにダメージを与えたのは、セドリックが振り向きもせず教室へ入ってしまったことだけだ。あらゆる角度の眼鏡を心に焼きつけておきたかったのである。



 ——あまりにも眼鏡に飢えすぎて幻覚まで見てしまったわ。でも、消えない幻なら大歓迎。



 あの眼鏡はいったい、なんだったんだろう。

 やはり、眼鏡を求めすぎて頭がおかしくなったのか。それとも、自分で自分に幻覚魔法でもかけてしまったのか。

 どちらにしたって、正気じゃないってことだけは確かなようだ。嘘でしょ、やっぱり理性は仕事を放棄したのかしら。でも眼鏡が、幻覚でも眼鏡が視えるのだ。

 愛しい愛しい眼鏡が、セドリックに会えば視える。



 ——ごめんなさい、お父様、お母様。それから兄様。わたしはこの眼鏡への愛を貫き通します!



 セドリック・カーライル大公子息の顔面に幻視した美しく洗練された眼鏡フレーム。久しぶりに見た眼鏡は、イェリナに遠い遠い記憶……それもこの世界に生まれる前の記憶を呼び起こした。


 はじまりは前世。大学で知り合った眼鏡をかけた友人との会話だった。



「ねぇ、次の土曜日、空いてるかな。眼鏡を買い替えたくて。でも視力が悪くてフレームを選んでも似合ってるかどうか、わからないから」

「わたしでいいなら、喜んで!」



 そうして訪れた眼鏡ショップ。ズラリと並ぶ眼鏡の数々。それらを見ても、はじめは眼鏡に興味を抱くことはなかった。



「……うーん、そっちよりこっちの方が似合うよ。枠? の色が綺麗で可愛いから」

「ありがとう、じゃあこれにするね。あ、そうだ。ちょっとこれ、見てみて」



 眼鏡がよく似合う友人が、手に取った眼鏡のテンプルを持ってぐにゃりと曲げる。そして笑いながらその眼鏡を手渡した。



「なにこの眼鏡、曲がる上に、めちゃくちゃ軽い! いいのこれ、金属としていいの!?」

「ふふ。いいんだよ、そういう素材なの。握っても踏んでも壊れないんだよ」


「す、凄い……。あれ、こっちの眼鏡、サングラスって書いてある。でも、色、ないに等しいよ?」

「あ、それはね。調光レンズっていって、ほら」



 友人がレンズ色の薄い眼鏡を日当たりのよい場所へ持ってゆくと、途端にレンズの色が濃く暗く変化した。



「うわっ、凄い! なにこれ凄い!」

「ふふ、ふふふ。よかったぁ、眼鏡ショップなんて退屈にさせちゃうかと思ってた」

「退屈!? 全然退屈しないよ面白いよ眼鏡凄いよ! はぁー、知らなかった。わたし、知らなかったよ、眼鏡凄い!」



 それからは、オタク気質なところもあってどっぷりハマった。


 眼鏡が持つ洗練された美しさ。様々な素材、深い歴史。知れば知るほど深みにハマる。まるで底なし沼にでも落ちたかのように。



「わたし、専攻変える。眼鏡を開発したい。新素材の研究がしたい!」



 加速する眼鏡への愛はとどまるところを知らず、進路を変えさせ、生活の中に眼鏡が溶け込んでいった。


 眼鏡をかけていないひと——ノー眼鏡人の顔と名前は、覚えたと思っても翌日には忘れている。そんな末期症状。


 推しはすべて眼鏡をかけている人——眼鏡人だ。二次元、三次元など関係ない。眼鏡人であれば、次元なんてどうでもよかった。


 そうやってイェリナの眼鏡に対する想いは魂に刻まれた。


 けれどある日、それはそれは色気漂う美しい眼鏡(をかけたモデル)の広告に見惚れてふらつき、事故にあったのだ。


 即死だったのか、そうでなかったのかは、わからない。気がつけばこの世界に転生していたのである。


 前世の記憶が戻ったころ、イェリナは当たり前のように眼鏡を探した。



 ——ここが日本じゃないことはわかってる。でも、眼鏡のない世界なんてあるはずがないわ!



 そしてイェリナは自分が転生者であることよりも、異世界ならではの眼鏡って、あるのかしら、と息をするように眼鏡のことを考えた。

 ところが、だ。



「メガ……ネ? それは一体、なんなんだ?」

「イェリナ、そのメガネというのは魔法道具なのか? アクセサリーなのか? 工芸品なのか?」

「視力矯正の道具? あなた、目の調子が悪いの? それなら、今から医療魔法士のところへ行きましょう、魔法で治してくれるから。ね?」



 ——と、今世の家族に聞いてみても、こんな調子で取り合ってもらえない。それどころか、眼鏡の概念自体が存在しないようだった。



「嘘でしょ……もしかしてここ、眼鏡が存在しない? そんな世界って、あるの!?」



 家族への聞き取り調査で出した結論に納得できなかったイェリナは、バーゼル男爵家に出入りする商人や職人、騎士たちにも同じように聞いて回った。



「お嬢さま、その……メ、ガネ? とやらではなく、魔法を使って眩しさを軽減するのがよいのではないでしょうか。その……顔に装着するような魔法道具ですと、汗でお化粧なども崩れてしまいますし……」


「うーん、ワシは確かに細かい作業をしますけども、拡大鏡ルーペ魔法を使えますからなぁ。いやぁ、拡大鏡ルーペは便利ですよ、お嬢さま! コツはいりますが倍率操作が自由自在で、特に細かい部分の彩飾にはもってこいなんですぜ!」


「ははは、魔力資源リソースを喰いはしますが、騎士団では隊長や班長が拡張現実オーギュメントを展開して部下の状態ステータス管理を行なっていますよ! ……顔に装着する魔法道具? 戦闘時に外れたり壊れる可能性があるものは、装備品として受け入れることは難しいかと……」



 始終こんな調子で、眼鏡の概念すらなく、たとえ眼鏡があっても受け入れられそうにないことを理解させられてしまっただけだった。



「信じられない……魔法道具としてすら存在しないなんて、そんなこと、ある?」



 けれど、日常に溶け込んだ魔法という万能な手段があるのなら、眼鏡という類まれなる奇跡のような道具が発明されなかった理由は、よくわかる。



「魔法で視力関係の問題を根こそぎ解決できるなら、仕方がないけど眼鏡は発明されないわ……」



 と、イェリナは納得してしまったのだ。けれど、納得したからといって諦められるものではない。

 イェリナの眼鏡に対する愛は重いのだ。



 ——眼鏡のない世界なんて、そんなの、堪えられない。



 だから、作った。イェリナは愛する眼鏡を自分で作った。


 眼鏡をかけていない他人ひとと話すことは苦手でも、商人たちとどうにか交渉し、眼鏡を作るためにコツコツ素材を収集した。

 集めた素材でフレームやガラスレンズを作るときは、職人たちにアドバイスをもらいながら、指先が傷つくことも恐れずに頑張った。お世話になった工房の親方の顔と名前は、最後まであやふやだったけれど。


 協力を依頼した商人も職人も、皆、イェリナの挑戦を奇怪なものでも見るような目で眺めていた。家族でさえも、そうだった。

 誹謗中傷されなかったのは、イェリナがバーゼル男爵家の娘だったからだろう。やっぱり領主の娘っていう立場は、領地限定だけど、強い。


 何度も何度も失敗を繰り返した。イェリナはどうしても魔法を使わず眼鏡を作りたかった。



 ——だって魔法は眼鏡の存在意義を奪ったのよ? そんなものの力を借りるだなんて、できない。



 けれど男爵家の家業のかたわらに必死で勉強をして、たどり着いたのは、魔法と錬金術だ。

 眼鏡の存在意義を無きものにした魔法。そして、魔法の一種である錬金術。失敗続きで眼鏡に飢えたイェリナは、もう、なりふりなど構っていられなかった。



 ——学院アカデミーなら、理想の眼鏡を作るための魔法と錬金術をもっと学べる!



 猛勉強して学費免除となる特待生として入学した学院アカデミーで、イェリナは更に研鑽を続け、ついには念願の眼鏡を作りあげた。それが、ちょうど、一年ほど前のこと。


 この世でたったひとつの、イェリナの宝物。


 けれどイェリナは、眼鏡がひとつできたくらいで満足するような眼鏡の愛し方をしていない。

 イェリナが心底欲しいと望むのは、前世で通っていた眼鏡ショップ。棚にズラリと並ぶ眼鏡に囲まれた楽園のような光景だ。



 ——あの光景を、夢のような空間をこの世界でも……! 



 そういうわけで、眼鏡なき世界における眼鏡の普及と眼鏡制作の技術を向上させるため、イェリナは王立ソフィア・モリス学芸学術院——通称、学院アカデミーへと進学をして、今、ここにいる。







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