狂おしいほど眼鏡に焦がれる転生令嬢は、大公子息の幻覚眼鏡に恋をしました

七緒ナナオ

  

1.イェリナ・バーゼル男爵令嬢の長い長い一日

第1話 なんて素敵な眼鏡さま

「嘘でしょ、眼鏡……眼鏡だわ……!」



 イェリナは思わず歓喜の声を上げていた。上擦って震えた声が学院アカデミーの朝の廊下の騒々しさに溶けて消える。



 ——眼鏡だ! あのひと、眼鏡をかけている!



 思うが早いか、一歩踏み出した足がそのまま駆け足となる。乱れる髪も制服スカートも、気にしてなんていられない。


 なんの因果か眼鏡が存在しない世界に転生してから、イェリナは諦めきれずに心の奥でずっとずっと追い求めてきた。おかげで眼鏡以外に関心を抱けず、友人もいない。

 前世では眼鏡に尽くすために、眼鏡専用新素材を開発することを夢見て大学で学んでいた。だから尚のこと、眼鏡が存在しない世界に絶望していたのだ。


 心臓が燃える、理性も燃える。イェリナは今世で身につけた貴族令嬢としての礼儀と作法を捨て去って、本能がおもむくままにイェリナの心に火をつけた相手の腕をガシリと掴んだ。



「め、眼鏡さま……っ!」

「……君は、誰?」



 とろりと溶けたような黄緑色イエローグリーンライトがイェリナをまっすぐ見て応えた。その目の色と声の柔らかさにハッとして、イェリナの気が眼鏡から逸れる。


 うっかり捕まえてしまった相手は眼鏡をかけてはいなかった。イェリナが黄緑色に心を奪われた途端、彼の美しく整った顔から眼鏡が消えた。すぅっと空気に溶けるように。



「あっ、ダメ。お願い、お願い……消えないで」



 祈るように、あるいはすがるように彼の手を握る。すると、消えてしまった眼鏡の幻影が再びうっすらと浮かび上がってきた。


 なんて素敵な眼鏡だろう。イェリナはホッとしながら、ラウンドにもスクエアにも視えるフレームの幻に熱い視線を送る。

 細いフレームも太いフレームも、どんな形状の眼鏡にも視える幻覚眼鏡。魔法だろうか、それとも奇跡か。

 こんなにも色気を感じる眼鏡を視たのは、何万本もの眼鏡を愛で眺めてきた前世でだって、ただ一度きりしかない。



 ——あ、れ?



 素敵なのは眼鏡(幻覚)だけじゃない。それだけじゃなかった。彼の顔立ちは美しい。


 どこか遠くへ放り出していた貴族の常識センスが、遅れてイェリナの元へとやってくる。


 美しい金色の髪と神秘的な黄緑色の目。端正な顔立ちと不遜な物言いをしても滲み出る気品と優しさ。襟元に飾られた獅子と王冠と星とが意匠された徽章。


 彼の傍らには、燃えるような赤髪と深い緑色の目を持つ貴族子息がひとり。イェリナを警戒するように睨んでいる。


 それだけで彼が格上の貴族子息——それも大公子息——であることがわかった。


 田舎のバーゼル男爵家に転生した産まれたついた茶髪で薄茶色の目をした地味でパッとしないイェリナが、気軽に話しかけていい相手じゃない。ましてや腕を掴んで手を握るなど。いくらここが自由と平等を謳った学院であったとしても。

 イェリナの大胆な行動に、周囲は途端にざわついた。特に高位貴族と思われる御令嬢たちから、非難めいた囁きがあちこちから上がる。



「ああっ、なんてことを……っ!」

「信じられない! メガ……メガミ? メガネ? だなんて奇妙な愛称で呼ぶなんて!」

「あの方が優しいからって、無礼にもほどがあるわ!」



 そんなこと、自分が一番よくわかっている。ちょっと本能、どういうこと? どうしてアクセル全開なの、思うがままにやってしまったわ。

 悔やむイェリナの背筋を冷や汗が伝う。背中だって丸くなる。


 すると、御令嬢たちの刺々しい視線と声を遮って、イェリナの盾になるように彼が動いた。



「大丈夫? 僕に、なんの用?」



 幻覚眼鏡をかけたそのひとは、無礼なイェリナを邪険にするでもなくにこりと笑った。



 ——あっ。このひとを絶対に逃してはならない。



 突如として湧きあがった焦りのような直感。儚く消えてしまいそうな幻の眼鏡は美しく、彼の端正な顔にピタリと似合う。

 完璧だ。イェリナは思った。完璧な眼鏡顔。

 その完璧で麗しい顔が、彼の色気を引き出すような眼鏡(幻覚)をかけているのだから、たまらない。



 ——もしかして眼鏡恋しさに、とうとう頭がおかしくなったのかしら?



 そんなことが、一瞬、イェリナの頭の中をよぎったけれど、すぐにどうでもいいわ、と切り捨てた。

 大事なのは今、イェリナの眼に、あんなにも焦がれた眼鏡が視えていること。ただそれだけだ。



 ——わたし、このひとと踊りたい! 星祭りの舞踏会ダンスパーティーで踊れれば、必修単位も手に入れられる!



 イェリナが通う学院アカデミーには、学年ごとに進級に必要な必修単位がある。必修単位を落とせば即落第という厳しい進級条件が学生たちに課せられている。

 第二学年次に定められている必修単位は、夏がはじまる日を祝う星祭りの舞踏会ダンスパーティーに出席してダンスを踊ること。


 星祭りは一週間後。けれどイェリナには星祭りのパートナーがまだいない。

 一緒に踊ってくれる他人ひとを探しはしたけれど、眼鏡以外に興味を持てないイェリナは、眼鏡もかけていない異性なんて、はじめから目にも入らなかった。



 ——もう進級は望めないって諦めかけていたけれど、学院アカデミーにこんな素敵な眼鏡さまがいたなんて! きっと、諦めるのはまだ早いって、眼鏡の神様が導いてくれたんだわ!



 イェリナは興奮で背筋をゾクゾクと震わせながら、彼を捕まえている手に力を込めた。

 ぎゅう、と強く握っても、彼は嫌な顔ひとつせずイェリナに微笑みを向けている。



「あのっ、どうかどうか、お名前をお教えください……っ」

「それ、聞いてどうするの?」

「一週間後に行われる星祭りでのダンスパートナーに申し込みさせていただきたくて」

「……それは、僕に? 僕への申し込み?」

「そうです。わたしには、あなたしかいないの!」



 ——眼鏡と単位的な意味で。



 と、余計なことは言わなかった。遅まきながら復活した理性がイェリナの喉を詰まらせたのだ。グッジョブ理性、とてもいい働きをありがとう。もう少し早く復活して欲しかったけれど。



「わお、熱烈。ねえ、君、本当に僕の名前を知らないの?」

「す、すみません……存じ上げません……」



 大公子息様であることは、お声をかけてから気づいたのですが、と背中を丸めて正直に申告したイェリナに、セドリックが興味深そうに瞬いて笑った。



「そっか。面白いね、君。名前は?」

「イェリナ・バーゼルと申します。どうぞイェリナとお呼びください」

「バーゼル……西方領区の男爵か。イェリナ、僕はセドリック・カーライル。よろしくね」

「は、はぁ……よろしく、とは?」



 思わず首をかしげてしまった。イェリナには、自分がかなり無礼な態度を取っている自覚がある。

 だからセドリックから思いがけず肯定的な言葉が返ってきたことに驚いた。ちょっとこのひと、優しすぎない? 大公子息として大丈夫なの?



「うん? 星祭りのダンスパートナーの申し込みをしてくれたんでしょう? だから、よろしく」

「えっ。……え!?」



 イェリナは不遜にも、男爵令嬢の身分で大公子息であるセドリックへダンスパートナーの申し込みをしておきながら、自分の耳を疑った。

 まさか、了承されるだなんて。そう思ったのは、イェリナだけではなかった。


 セドリックの傍らでずっと黙って険しい顔をしていた赤髪の学生が、首を横へと振りながらイェリナとセドリックの間に割り込んできたのだ。



「待て待て、待てよセドリック。俺は了承できないぞ、こんな田舎貴族の無知で恥知らずな女なんて」

「アドレー、僕の選択に口を挟むつもり?」


「ああ、大いに挟むね! 星祭りのパートナーはただ組めばいいってもんじゃないって、わかってるだろ? まさかお前、そんな面倒な手続きをするつもりか」


 ——あっ、なるほど。カーライル様の奔放すぎる優しさ由来のトラブルを、このひとが未然に防いでいるのね。


 イェリナは目の前ではじまったセドリックとアドレーの口論をじっと静かに見守る。今はお口を閉じていよう。大丈夫、わたしの理性は鉄壁よ。


「アドレーは僕に協力しないんだ?」

「しないね! これまで通り教授指名を受けた方がいくらかマシだ。だから俺は、この女を認めない。お前らの推薦人にも保証人にもなってやらない」


「そっか。……困ったね、イェリナ。アドレーが認めてくれないと僕たちはダンスができないみたいだ」

「えっ。……え? そんな、困ります! わたしは将来作るすべての眼鏡のために、今ここで単位を落とすわけにはいかないのです!」



 口論の行く末を見守っていたイェリナは、セドリックから断りの言葉をもらって悲鳴を上げた。いくら動揺したからって、私のお口、ちょっと素直すぎない? ちゃんと仕事して、理性!

 けれど幸いにもセドリックは、イェリナが漏らした本音に眉をひそめるようなことはなかった。



「うん、君は困るよね。でも僕は困らない」



 数分前まで前向きだったのに、どうして他人アドレーの言葉で意志を曲げるのか。そんなに深い仲なのか。それとも高位貴族の移り気か。

 まるで猫みたいな気まぐれさ。イェリナの頭の中は、もうぐちゃぐちゃだ。けれどひとつ、わかっていることがある。

 セドリックの戯れだとしても、せっかく掴めた縁だ。ここで諦めるわけにはいかない。進級のための単位もかかっているし、なにせ十七年ぶりに拝んだ眼鏡顔(幻覚)なのだから。



「わ……わかりました。まずはアドレー様に認められるよう……頑張ります!」



 それを聞いたセドリックがニコリと笑った。優しく細められた目には、なにかを期待するような光がちらついている。

 そしてセドリックは、乱れたイェリナの髪を一房掬い、愛おしそうにくちづけてから柔らかく告げた。



「うん、わかった。じゃあ、頑張って」



 イェリナにかけられた声はまぁるく優しいものだったけれど、言葉の中身は辛辣だ。



 ——え、頑張るの、わたしだけ?



 セドリックは呆然とするイェリナの手をそっと外すと、不機嫌なアドレーと共に背を向けた。二人は周囲の声も視線も気にならないようで、そのまま第三学年の教室へと入ってゆく。


 そうして残されたイェリナは、廊下の真ん中で大勢の淑女の悲鳴とつるぎのような鋭い視線を一身に浴びながら、ひとりたたずむことしかできない。








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