第36話 星祭りまであと二日

「サラティア様……アドレー様はどうされたのでしょうか……」



 翌日。アドレーはあの後、カーライル大公邸から戻ることはなく、今朝も連絡が来なかった。


 昨夜はビフロス伯爵邸にお世話になったイェリナは、ビフロス家の馬車でサラティアとともに一日振りの学院アカデミーへ向かっている。

 正面に座るサラティアは、イェリナの心配をよそに涼しげな顔をしていた。



「イェリナ様、アドレーは日課を果たしているだけでしょう。今頃、カーライル様のお側におられますわ」

「ですが……」

「いいの、大丈夫よ。あのひとが大事なときに連絡を寄越さないのは、いつものことなのよ」



 だからいつも通り、大丈夫なのだ、とサラティアは微笑んだ。せっかく昨日はとても可愛らしい反応をしていたのに。

 イェリナは少しもったいなく思いながら、口を閉じた。開いたままだと卑屈になりそうだったから。


 アドレーがカーライル大公邸へ行ってくれたのは、セドリックになにがあったのか探るためだ。それが腹心としての、従者としての務めだと言っていたけれど、それだけではないはずだ。


 イェリナはサラティアの表情をそっと窺った。サラティアは本当になんでもないように背筋を伸ばして窓の外を見ている。その表情は穏やかなものだった。

 ヤキモキしているのはイェリナだけなのかもしれない。サラティアはアドレーの婚約者だ。セドリックの腹心であるアドレーの。



 ——サラティア様にとっては、本当にこれが日常なんだわ……。



 イェリナは、これが高位貴族の在り方なのか、とどこか他人事のように噛み締めた。


 やがて馬車は学院アカデミーの敷地に入り、馬車止めで停車した。裏口ではなく、正面口だ。

 馬車から降りたイェリナは、サラティアに手を貸しながら辺りをそろりと見渡す。これでもイェリナは自分が学院アカデミーでどのように噂されているのか自覚があるからだ。


 二日前にはやわらぎかけていた噂も、昨日休んだことでどうなっているのかわからない。イザベラのもとにセドリックが寄り添っていたのなら、噂が悪化している可能性のほうが高いだろう。



 ——サラティア様のご迷惑にならないといいのだけれど。



 けれど、そんなイェリナの不安は周囲を見渡した途端、一瞬で別の感情に塗り替えられた。



「凄い……星祭りの装飾デコレーションって、こんなに素敵なんですね!」



 学院アカデミーが星祭りの準備に入ったようで、それはそれは見事な装飾デコレーションがあちこちに施されていたのだ。


 馬車止めから学舎まで続く道の植え込みに等間隔に植えられた樹木は、星祭り用の色彩豊かな星飾りオーナメントで彩られている。魔法が込められた石を飾られている庭木もあった。

 陽が落ちると点灯し、美しい夜間発光イルミネーションが見られることだろう。



 ——きっと学院アカデミー中が星の海のようになるんだわ。



 イェリナは二日後に迫る星祭りの日を想像し、うっとり歩く。


 わかっている、これは現実逃避だ。


 星祭りの舞踏会ダンスパーティ参加に必要な保証人と推薦人は、もう大丈夫。けれど肝心のパートナーセドリックだけが、ここにはいない。



 ——セドリックと踊りたかったな……。



 それまで意識的にセドリックのことを考えないようにしていたのに、駄目だった。ぽっと湧き出た思いが渦となって、イェリナの心を濁らせる。


 イェリナの中では、セドリックとはもう踊れないことが確定していた。だって仕方がない。ライバルはイザベラ・マルタン侯爵令嬢だ。

 貴族としての家格も淑女としての経験も、断然イザベラの方が上。イェリナが敵うことなんて、眼鏡への想い以外になにひとつとしてない。


 イェリナの眼鏡様の情報をイザベラに教えたのがアドレーだとして、それならどうしてセドリックは今、イェリナの側にいないのか。

 暗く沈みかけたイェリナの心を引き留めたのは、サラティアのなにげない言葉だった。



「イェリナ様、昨年の星祭りはどうされていたのです?」



 問われたイェリナは去年の今頃を思い浮かべた。



 ——あっ。この世唯一の眼鏡様が完成した日……。



 失った眼鏡を思い、少しだけ目尻が濡れる。

 イェリナは去年の星祭りの日に愛しい愛しい眼鏡様を完成させていた。仕上げ作業と物理眼鏡を手にできる喜びでいっぱいだった昨年は、星祭りの装飾デコレーションなど目に入っていなかったのだ。



「昨年は……わたし、友人も知人もいなかったので……参加するのは今年がはじめてなんです。昨年は寮にこもって眼鏡製作を……」

「メガネって作れるものなんですの!?」


「作れ……ましたね。でも、わたしも職人というわけではないので……かなり時間もかかりましたし、指先はほら……」



 イェリナはそう言うと、細かい傷でいっぱいの手をサラティアに見せた。



「……傷だらけになってしまいました」

「イェリナ様……」

「貴族令嬢の手じゃないですよね。でもわたし……」



 この手に誇りを持っているんです、と続けたかった言葉は、サラティアによって遮られた。

 澄んだ青緑色の目を輝かせたサラティアが、イェリナの傷だらけの手を取り握りしめて言う。



「素晴らしいわ、なんて尊い手なのでしょう。領地の民の手と同じ、よい手ですわ!」


「あ……ありがとうございます、サラティア様。……確かビフロス伯爵家とその領地は鉱物の採掘と加工を担っているのでしたね。眼鏡の材料集めで、いくつかビフロス産の鉱物と工具を使いました」



 頭の中に詰め込んだ貴族名鑑の中から、ビフロス伯爵家の情報が口をついて出た。


 ビフロス領は、多種多様な鉱物が採掘される地域で、採掘技術と鉱物加工技術は群を抜いている。腕利きの職人が多く工房を構え、ビフロス家も彼ら彼女らを支援しているという。


 そんなイェリナがなにげく付け足したひと言が、サラティアの中の営利活動ビジネス魂に火をつけた。

 それまで尊敬の念で輝いていた青緑色の目が、今度は知性と商機の色にきらめくのをイェリナは見た。








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