第4話 出る杭は打たれると言いますが

 地味で目立たぬ男爵令嬢が、今朝の出来事ひとつでアッという間に有名人になってしまった。


 その事実をなんとか受け止めたイェリナは背中に冷や汗を貼り付けたまま、第一教室の一番後ろの席で分厚い魔法理論の教科書とノートを並べる。



 ——魔法理論の講義が座学オンリーでよかった。そうじゃなかったら、針の筵状態で耐えられなかったに違いないもの。



 書き込みとメモ書きでいっぱいのノートを広げながら、イェリナはほんの少しだけ気を緩める。


 けれど、イェリナの幸運は眼鏡顔セドリックと出会えたことで使い果たしていたのかもしれない。

 スカディア教授が授業開始早々に、こんなことを言い出したのだ。



「今日の授業は、これまでの復習を兼ねて体験型講座ワークショップ形式の講座とします。では皆さん、各自、三、四名のグループを作って話し合ってください。議題は——……」



 スカディア教授の講座を受けて三ヶ月。今まで座学ばかりで楽勝だったのに、よりにもよって今日、体験型講座ワークショップをやるなんて。



 ——嘘でしょ、この授業は座学しかないんじゃないの!?



 イェリナは思わず頭を抱えた。ひとりで静かに受けられる講義だったから取ったのに。


 そうしてざわめく周囲をぐるりと一度見渡して、ひそやかにため息を吐き出した。

 セドリックに話しかけたときには気にしなかった周りの声が、今はどうしようもなく聞こえてくる。



「見て、あの方。よくもまあ、講義に出席できましたわね。私なら恥ずかしくて欠席してしまいますわ」

「カーライル大公子息様だけじゃなく、ビフロス伯爵令嬢様にまで……無礼な方って、どこまでも無礼なのね」

「仕方がありませんわ……バーゼル男爵家だなんて……あまり聞かない名前ですし」



 高位貴族の御令嬢たちがイェリナを見る目は冷たい。冷えているのは視線だけでなく、囁かれる言葉も内容も同じこと。


 余程のことがない限り、本人の前で噂や陰口を囁くことのないように躾けられている高位貴族令嬢たち彼女たちが、だ。

 イェリナがしでかしたことは、余程のことなのだ。



 ——眼鏡さえ……眼鏡さえこの世界にあれば、今朝のような失態は回避できたはずよ……。



 冷ややかな空気を感じながら、イェリナは現実から逃げるように目を伏せて眼鏡を思う。

 心の中に大切に大切にしまってある眼鏡の記憶に触れ、いくらか心が落ち着いた。そんなイェリナとスカディア教授の厳しい目が合った。



 ——あ、よくよく見れば両端が吊り上がったフォックス型フレームが似合いそうなお顔をしているわ……。



 教授は今朝の事情を知っているのか、いないのか。教授は、現実逃避しかけているイェリナに追い打ちをかけるように冷たく言った。



「バーゼルさん? どうしたの、早くグループを作って課題に取り掛かってください」

「あ……えっと……はい……」

「カーライル大公子息様にお声がけをしたときのように、積極的に動いてくださいね、バーゼルさん」



 これでよくわかった。イェリナは女子生徒だけでなく、女性教授も敵に回してしまったのだ、と。


 作り物のような無機質な笑顔を浮かべたスカディア教授は、どんなによく見積ったって、イェリナの味方になってくれそうにない。裏切られたような気持ちがイェリナの顔を青くさせる。



 ——もし、教授の機嫌損ねて単位が取れなかったらどうしよう。



 学院アカデミーは自由と平等を謳うけれど、通う生徒も教える教授も貴族籍を持つ者たちだ。どうしたって社交界の予行演習として貴族の規範ルールを無視できない。


 今やイェリナは、高位貴族に気安く接する無礼な下位貴族の娘である。そんな不躾な貴族令嬢に相応しい態度を取っているだけのこと。きっと、そう。そうだと思いたい。


 黙ったままうつむいてしまったイェリナに、スカディア教授がわざとらしいため息を吐いた。



「仕方がありませんね……誰か、彼女を受け入れてくれる方はいますか?」

「あら、申し訳ありません。こちらはもう、定員ですので」

「ふふ、ごめんなさい。わたくし達もですわ」

「ごめんなさいね、別のところを当たってくださる?」



 目があった令嬢たちには、すべて断られた。

 イェリナを助けてくれる友人はいない。知人さえいない。


 そもそもイェリナは他人の名前と顔を一致させて覚えることが難しい。だからこの世界に友人はいない。一度だって、できたことがないのだ。


 前世の頃は、他人の顔と名前を眼鏡のあるなしで見分けていた。基準はすべて眼鏡である。

 それができない今世ではイェリナは友人知人を作れなかったし、なんなら第一講義の直前に名乗ってくれた金髪巻毛の伯爵令嬢の顔と名前だって、もう怪しい。


 だってこの学院アカデミーには、金髪巻毛の青緑色の瞳を持つ令嬢が八名もいるし、この教室内にはそのうちの二名がいる。



 ——せめて、せめてあの特徴的な襟止めブローチさえ見ることができれば。



 仮に見分けられたとしても、ビフロス令嬢が同じ教室にいるとは限らないのだけれど。

 イェリナが諦めかけた、その時だった。



「イェリナ・バーゼル男爵令嬢! こちらへ来なさい!」



 凛とした鋭くも力強い声。胸で輝く鷲と鉱石の襟止めブローチ


 顔と名前を一致させることができなくても数分前に聞いたこの声と襟止めブローチの意匠を忘れるほど、イェリナは忘れっぽくはない。



「あ……あの……えっと?」



 ——どうしてサラティア・ビフロス伯爵令嬢様が?



 イェリナの声にならない戸惑いを勘違いしたサラティアが、眉をキリリと吊り上げる。



「信じられない、もうわたくしをお忘れになったの!? ……まあいいわ。貴女はわたくしと組むのよ」



 サラティアはそう言うとイェリナの隣にサッと座ってしまった。


 大きな目をパチパチと瞬かせる御令嬢たち、そしてスカディア教授。サラティアがそんな彼女たちを一瞥すると慌てて目を逸らす様子まで見れてしまった。



「あの……ありがとうございます」

「いいのよ。この授業が終わったら、イザベラ・マルタン侯爵令嬢様のところへ貴女を連れてゆくのですから。貴女を絶対に逃さないよう言いつけられているの」

「い、イザ……?」



 ——誰だ、それは。そんな名前の御令嬢は第二学年にはいないはず。



 イェリナの疑問は顔に出てしまっていたらしい。サラティアは一度強く咳払いをしてから鋭く目を細め、眉を寄せて首を傾げるイェリナに言った。



「イザベラ・マルタン侯爵令嬢様です。第三学年で女子生徒の中心に立つお方。決して失礼のないように。イザベラ様はカーライル様に安易に近づいた貴女にお怒りなの。……面倒な騒動を起こしてくれたお陰で、わたくしがイザベラ様に声をかけられてしまったではないの。どうしてくれるのよ」


「……え、……え? なんの話ですか? 今、わたしを助けてくれたのでは……?」

「どうしてわたくしが貴女を助けるの? 別に貴女とは友人でも親族でもなんでもないのに。そんなことより今は課題を進めますわよ。まず魔法詠唱の簡略化についてだけど……」



 サラティアの言うことは、もっともだ。

 もしかしたら、このまま友人に……いや、知人くらいにはなれるかもしれない、と期待したイェリナの気が早すぎたのだ。


 だからイェリナは身勝手な失望を隠すように愛想笑いを浮かべながら、しかめっつらをしたままのサラティアと議論ディスカッションを進めるしかない。








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