第5話 ノー眼鏡人の名前は覚えられない

 気まずい空気感が漂う第一講義が終わるや否や、イェリナはサラティアの予告通り、引きずられるようにして人目のつかない階段下に連行されていた。


 そこで待っていたのは、ひとりの高貴な御令嬢とひとりの赤髪の男子生徒。



「貴女が無礼なバーゼル男爵令嬢ね?」



 編み込んでまとめた白金色の髪、険しく細められた紫色の目をした令嬢がイェリナに声をかけた。彼女のツンとした綺麗な顔は、はじめて見るような、そうでもないような。



 ——誰、だっけ? 第二学年の学生……では見ない顔だけれど。



 イェリナはそう思って、彼女の隣へ視線を移す。赤髪の学生は、今朝、セドリックに物申していた学生だ。……多分、そうだと思う。


 赤髪で緑色の目をした背の高い男子学生は、この学院アカデミーに十数人といる。けれど、獅子と星が意匠された腕章をつけたひとは、多分、きっと、ひとりだけ。



 ——名前……確かアからはじまる名前のお方。この方を連れているということは、この御令嬢も第三学年なのかしら。



 アドレーの名前を思い出すことを放棄して、彼の隣でイェリナを睨む御令嬢へと視線を向ける。



「えっと、あー……あのー……」



 イェリナの喉が、自然とゴクリと上下する。主に、サラティアから教えられた名前を思い出せないせいで。



「ちょっと! 教えたでしょう!? イザベラ様よ!」

「あっ、あの方ですか! ……コホン。イザベラ・マルタン侯爵令嬢様、わたしになにか御用でしょうか?」



 決して美しいとは言えないような不恰好なお辞儀カーテシー。イェリナの精一杯の頑張りに顔を顰めたのはイザベラで、頭を押さえたのはサラティアだ。

 そして。



「ぶっ! ぶははは!」

「アドレー、貴方なにを笑っているの!」

「あーすまんすまん、イザベラ。このお嬢さんがあまりにもおかしくて。……サラティア、お前、この田舎娘になにも言っていないのか?」


「説明しましたわ。説明してコレなのですから仕方がないでしょう? ——……バーゼル男爵令嬢。貴女、貴族の作法マナーは未修得なの? それならそうと、先に言いなさい!」



 教師を思わせるようなサラティアの厳しい声は、まるで歩くマナー教本ブックのよう。肩をびくつかせて縮こまったイェリナは、思わず何度も何度も頭を下げる。



「は、はいぃ……! す、すみませんすみませんっ! で、でも、侯爵令嬢様が面会に来ること以外は特に聞かれませんでしたし、下位貴族向けの高位貴族に対する作法マナー授業は第二学年の後半にしか受けられないので……」


「ぐっ……妙な説得力が……。いえ、挫けてはダメ、頑張れサラティア、負けてはなりません、ふぁいと! ……ゴホン。バーゼル男爵令嬢、いくら敬称をつけていてもね、格下の貴女が格上のイザベラ様の名前フルネームを呼ぶのは失礼に値するのよ。気をつけなさい」


「は、はい! 気をつけます、ビフロス先生!」

「ちょ、ちょっと! わたくしは先生などでは……!」

「えっ、いけませんか?」

「い、いけなくは……いいえ! ダメよ、ダメです! わたくしは貴女と馴れ合う気はないの!」


「ははははは、サラティア。そこのお嬢さんと戯れていないで、俺たちに時間をくれないか? こっちは休憩時間を削って来ているんでね」



 サラティアは静かにため息を吐いてから「わかりました」と告げると、身を引くようにこの場から立ち去ってしまう。

 置いていかれたイェリナが心細そうにサラティアの背中を見送っていると、途端、アドレーの深緑色の目が細くなり、色味が沈んで暗くなる。


 あからさまな敵意を受けてイェリナの細い肩がビクリと跳ねた。その様子に満足したのか、アドレーの目元と口元がほんの少しゆるりと緩む。



「さて、身の程知らずのお嬢さん。セドリックのことは諦めてくれ」

「どうしてですか? わたし、頑張るって約束しました」



 精一杯の強がりで震える声のままイェリナは主張した。セドリックに約束したのだ。このアドレーに認められるように頑張るのだ、と。



 ——だから、少しでも頑張らないと。



 けれどアドレーはイェリナの小さな努力など気づかずに、大袈裟なほど大きなため息を吐いて静かに威圧プレッシャーをかけてくる。



「いいか、お嬢さん。セドリックにも言ったが、俺はお前らに協力する気は一切、ない」



 地を這うような低音と眉ひとつ動かさない無表情。アドレーはイェリナを追い詰めるようにゆっくりと物理的な距離を縮めてくる。



 ——顔が、顔がとても、怖い……! あ、でもよく眺めたらこの方、着崩された制服に野生みのある顔立ち……細身のタイプの……例えば縁なしリムレス眼鏡なんてギャップ萌えで似合うんじゃないかしら!?



 男性に詰め寄られるという前世でも経験したことのない状況で、イェリナの頭は真っ先に眼鏡を思い浮かべた。途端に気が楽になってきて、怖さも圧迫感も、どうでもよくなってしまった。

 恐怖で震える身体は歓喜で震え、威圧プレッシャーで縮こまる心は眼鏡によって解放された。


 眼鏡は心を救い、思考を解放するのである。



 ——アドレー様にはカーライル様のような眼鏡は視えないけれど、眼鏡が(視え)ないのなら、自分で幻覚眼鏡を作ればいい!



 だからイェリナはアドレーに壁際に追い詰められていることに気づいても、もう怖くはなかった。


 ——もっと! もっと近づいてアドレー様! その縁なしリムレス眼鏡が似合いそうなお顔をもっとよく観察させて……!



 先ほどまでの緊張感と恐怖心はどこへやら。歓迎ウェルカム気分でアドレーの挙動に注視する。

 様子が変わったイェリナに気づいたのか、否か。アドレーの片眉がピクリと跳ねた。けれど、彼はそのままイェリナに詰め寄ってゆく。



「……だいたいな、セドリックのダンスパートナーはもう決まってるんだ。学院アカデミーで一番高貴なる女性であるイザベラでさえセドリックを諦めて、別の男婚約者と踊るんだ。そんなところへ割り込んだら駄目だとは思わないか?」


「はいっ、アドレー様! カーライル様のダンスパートナーは、順番制かなにかなのですか?」



 思わず小さく挙手してイェリナは聞いた。問いに答えたのはアドレーではなく、渋い顔をしたイザベラだった。



「違いましてよ。セドリック様はあまりにも人気が高く、星祭りのダンスパートナーともなれば、令嬢たちの無用な闘争を生みかねない、ということでヴァンショー教授がパートナーを指名されているのです」


「えっ。ということは、わたし、ヴァンショー教授の面子を潰したことになりますか!?」

「ぶは! わははははは! マジかよ、そうきたか!」

「アドレー! 笑っている場合ではなくてよ! ……とにかく、貴女のような田舎娘がパートナーになってよい方ではありません! 今すぐ辞退してらして?」



 イザベラの要請にイェリナが頷くことはなかった。サラティアが言っていた話を思い出したのだ。セドリックには今、婚約者はいない、と。

 学院アカデミー星祭りダンスパーティーに参加できるのは、第二学年に上がってからだ。唯一の例外は、第二学年以上の婚約者がいる第一学年の学生だけ。


 婚約者がいる学生にとって、星祭りのダンスパートナー選びは、今後の結婚生活を円滑にするための大事な儀式だ。学院アカデミーの学生は、星祭りで婚約者とダンスをしてこそ、真に結ばれ認められる。

 そんなことは、友人がいなく世情に疎いイェリナでも知っていること。



 ——あれ? マルタン侯爵令嬢様は、婚約者がおられる、のよ、ね?

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