第6話 眼鏡は心身を救う

 イェリナは恐る恐る小さな挙手をして、イザベラの顔色を窺いながら慎重に言葉を選んでゆく。



「あのー……マルタン侯爵令嬢様は、その……カーライル様の御婚約者というわけではない、のですよ……ね? 星祭りも婚約者様と踊られるようですし……」


「それがなんですの?」

「どうしてそんなにカーライル様のパートナーを気にされるのかな、って思いまして……」

「……っ!」


「だって星祭りのパートナーって、婚約者のいる方は婚約者と。そうでない方でも、婚約者候補としてパートナーとなるのですよね……って、あ!」



 イェリナは自分で言っていてようやく気づいた。

 星祭りのパートナー選びは重要だ。婚約者がいる学生たちはもちろんのこと、そうでない者であっても。

 セドリックの眼鏡顔(幻覚)と必修単位の取得にしか興味がなかったイェリナは、そのことをすっかり忘れていた。



「あっ、あの! 違いますから! わたしは違います!」

「違わないでしょ、お嬢さん。君のその顔は、なにかやましいことを考えている顔だ」

「ち、違うんですってば!」



 慌てて否定するイェリナが後ずさる。その踵がコツリと壁にあたってしまった。どうしよう、もう逃げ場はない。

 そんなイェリナの動揺を見逃すアドレーではなかった。アドレーはイェリナを逃さぬように捕食者の眼差しで壁に手を突き、閉じ込める。



「……なにを考えている?」



 ——眼鏡のことしか考えていません!



 だなんて、やっぱり言えない。イェリナの脳裏には、家族に眼鏡への愛を理解してもらえなかった今世の辛い記憶が次から次へと流れ出す。



「……お、お話しできることはありません!」


「ふむ。そういう芯の強いところに惹かれたのかな、セドリックは。それともただの興味本位か? ……とにかく、一時的な病にすぎない。俺はセドリックも、できればお嬢さんも、傷つく姿を見たくはないんだよ」



 そう告げたアドレーの深緑色の目は、険しいだけではなかった。ゆらゆらと漂う慈悲のような揺らぎが浮かんでいる。



「あ、の……? なにか勘違いをされているのでは……?」



 イェリナがそっとアドレーに手を伸ばしたところで、その手はアドレーには届かなかった。横からイェリナの手を掴み、抱き寄せる者がいたからだ。



 ——な、なに、誰っ!?



「アドレー」

「せ、セドリック!? どうしてここに——……」

「親切な御令嬢がね、イェリナが困ったことになっていると教えてくれたんだ」



 セドリックの冷たい声が静かに響く。



「そのお嬢さんが困ってるなんて、冗談だろう? さっきまで、俺もイザベラも、そのお嬢さんの話術に翻弄されていたからな」

「アドレーが? ……へぇ」



 セドリックが興味深そうに呟いて、イェリナを抱く腕に力を込めた。それだけなら、よかった。あろうことかセドリックの指が、まるで猫かなにかを愛でるかのように、イェリナの耳やらうなじやらをサワサワと弄び出す。



 ——ま、待って。待ってなにこれ、ちょっと困る!



 イェリナは、もう完全にパニック状態だ。周囲でなにを話し、なにが起きているのかなんて、目にも耳にも入らない。セドリックの腕の中で混乱したまま、状況だけが進んでゆく。

 かろうじてわかったことといえば、背筋を伸ばしたサラティアが、凛とした表情で金の巻き髪をゆっさゆさと揺らしながら、セドリックの背後から前へ出たことくらい。



「まあ、サラティア!? 貴女、あたくしを裏切ったの!?」

「違いますイザベラ様。ですが、多勢に無勢のこのようなやり方には承服できませんわ」


「ああ嫌だわ、こんな子供の言い合いに清廉なるビフロス家のやり方を持ち込まないで! あたくしの誓約魔法で縛らなかった寛大さをよくも踏み躙ってくれたわね!」


「君。高潔なるビフロス令嬢を責めるのは違うでしょ」



 セドリックの声は極限まで冷えていた。そんな声に貫かれたイザベラは顔から血の気が引いていることだろう。彼女の顔が見えないイェリナでも、眼鏡以外に関心がないイェリナでも、それくらいはわかる。



「セッ……カーライル様、違うのです! これは、これは……」


「うん。名前呼びを許していない君が、僕のいないところで僕をどう呼ぼうと気にはしていなかったけれど、それも今日までだね。まあ、分別はあった方……なんだろうけど。さて、どうしようか」


「おい、セドリック。その辺にしてやれ。こんなことでイザベラとの縁をあっさり切るな」



 ひと言声を出すたびに冷たさと鋭さが増してゆくセドリックを止めたのは、アドレーだった。



「……アドレー、それが君の判断?」

「ああ、そうだ」

「そっか。それなら仕方ないな。君、よかったね。あとでビフロス令嬢とアドレーにお礼を言うように」



 セドリックは相変わらずのようだった。今朝のやりとりと同じようにアドレーの言葉にあっさり同意して、それ以上イザベラを追い詰めるようなことはしなかった。

 イェリナはイザベラの「は、はい。承知しました……」というか細く震えた声を聞きながら、ぼんやり思う。



 ——やっぱりカーライル様はアドレー様を頼りにされているんだわ。



 イェリナはセドリックとアドレーとの関係に、確信めいたものを感じ取った。

 ことごとく反発するアドレーを許し、受け入れ、まっすぐ見つめる黄緑色の目イエローグリーンライトは、セドリックの懐の深さとアドレーへの信頼を感じさせるには充分すぎる熱量がある。

 そう思った途端、イェリナはどうしてか胸にツキリと痛みを感じた。まだなにも得ていないのになにかを失ったように思えて、震える右手をそっと握りしめる。


 眼鏡があれば、なんでもできる。気力だって取り戻せる。


 そう、眼鏡さえあればイェリナは満たされるのだ。だから、



「それじゃあ、行こうかイェリナ」



 と。抱きしめていたイェリナの華奢な顎をそっと持ち上げて目線を合わせたセドリックの完璧な眼鏡顔(幻覚)に、イェリナの飢えきっていた頭と心は簡単に眼鏡許容量を突破した。



 ——なんて素晴らしい眼鏡顔……っ! 幻覚だとわかっていても、トキメキが止まらない! 透明クリアレンズだけじゃないわ、きっと彩色カラーレンズも似合うはず!



 混乱しきったイェリナの頭脳は。いつの間にやらセドリックの眼鏡顔を称える言葉と歓喜で満ちていた。

 そんなイェリナに気づいたのか、いないのか。セドリックは小さく笑ってイェリナの肩をそっと抱く。



「イェリナ、返事は?」

「ふ、ふぁい……!」



 そういうわけでイェリナはセドリック(がかけた幻覚眼鏡)の魅力に目をチカチカさせながら、間抜けな返事を返すことしかできなかったのである。







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