第14話 すべては眼鏡と単位のために

「イェリナ・バーゼル男爵令嬢!」



 人目につかないよう学院アカデミーの裏口へ馬車をつけてくれたセドリックと別れ、ひとり学舎を目指して歩くイェリナは聞き覚えのある声に呼び止められた。


 凛とした芯のある声。金髪をもりもりと巻いた青緑色の目をした令嬢の姿をイェリナは目を細めて眺める。肝心かなめの襟止めブローチがない。ないのだけれど。



「……えっと、あー……さ、サラティア・ビフロス様?」

「そうよ、わたくしよ!」

「ああよかった、合ってた! 襟止めブローチが見えなかったから……。ビフロス様、わたしに何かご用ですか?」


「用がなければ話しかけてはいけませんの?」

「そんなことはありませんけど……話しかけたからには、何かご用があるのでは? わたしとビフロス様は……お、お、お友達でもなんでも、あ、あ、あ、ありませんし……」



 アドレーに、サラティアに気にかけてもらっているからといって調子に乗るな、と忠告されたばかりなことを思い出し、イェリナは不本意ながらも距離を取ろうと試みた。



 ——こ、心が痛いっ! ビフロス様は親切に声をかけてくれただけなのにっ!



 他人の親切心をあしらえるほど、イェリナの心は鈍感じゃない。内心ガクガクと震えながらも、自分なりの毅然とした態度でサラティアを拒絶する。

 けれど。



「ぐっ……妙に納得感が……。いえ、こんなところで諦めてはダメ、どうってことないわサラティア、ふぁいと! ……ゴホン。バーゼル男爵令嬢、貴女に渡すものがあります」



 サラティアはそう言って、一冊の真新しいノートをイェリナに差し出した。



「え、なんですか? 呪いの手紙とか、苦情の署名をまとめたものですか?」

「ちょ、ちが……っ」


「あ、もしかして果たし状の作品集アンソロジーですか? どこのどなたに頼まれましたか? はあ……災難ですね、ビフロス様は親切な方だから」

「ちが……ち、違うって言ってるでしょ!!」



 イェリナに冷静さを乱されたサラティアが、顔を真っ赤にして荒い声を上げた。

 ほんの少し目尻に涙が煌めいている。それを見てイェリナは少しだけやりすぎた、と反省した。


 でも、呪いの手紙でも苦情の署名でも果たし状でもないなら、なんだろう。まったく思い当たる節のないイェリナは首を傾げてサラティアを見つめて待った。


 深呼吸を二回。乱れた心を落ち着けたサラティアが背筋を伸ばし、ゴホン、とひとつ咳払いをして手にしていたノートを掲げて見せてくれた。



「昨日、カーライル様に連れて行かれたせいで受講できなかった授業のノートです」

「なんてこと! 失礼しました、あなたが神でしたか? それとも女神様とお呼びしたほうが?」



 まるでしもべか信者かのようにイェリナはサラティアの前にひざまずいた。

 信奉するように両手を合わせて指を組む。もしかしたら、滂沱の涙を流していたかもしれない。



「なななななにをおっしゃっているの!? た、立ちなさい! いいから立つのよ!」


「ああ……ありがとうございますありがとうございます! 欠席届を出せなかったから少し諦めていたんです、昨日のノート……本当に、本当にありがとうございます」



 立ち上がったイェリナは地面についた膝を払うこともせず、サラティアから受け取ったノートを抱きしめた。

 サラティアがイェリナの胸で大事そうに抱かれるノートを見つめてごくわずかかに頬を緩める。そしてすぐに普段通りに背筋をピンと伸ばしてみせた。



「二度目はないと思いなさい」



 それだけ告げると、サラティアはイェリナに背を向けて颯爽と学舎の方へと去ってゆく。

 残されたイェリナは、ただ呆然とサラティアの凛々しい後ろ姿を見送るだけ。

 今すぐ追いかければ追いついて、一緒に学舎へ行けるのに。このまま押せば、はじめて友人にだってなってもらえるかもしれないのに。

 イェリナの足は根が生えたように動かない。


 サラティアを追いかけられずにいるのは、今朝に受けたアドレーの言葉が脳裏をよぎったからだ。

 サラティアには関わるな、と聞こえたアドレーの言葉が胸に刺さって踏み込めない。

 関わるなもなにも、サラティアには昨日からもう何度も助けられている。


 眼鏡をかけていない他人ひとなのに、サラティアはイェリナに親切にしてくれる。揺るぎない正義の心で接してくれる。

 たとえば廊下ですれ違ったとして、イェリナがサラティアに挨拶をしても変な顔をせずに返してくれるだろう。


 そんなひと、彼女以外にいる? いないでしょ。機会チャンスは自分で掴んでこそだ。


 それに、とイェリナはゴクリと喉を鳴らした。

 サラティアと友人になって話ができれば、アドレーがどうしてサラティアに近づくな、と言ったのか、わかるかもしれない。

 その一方で、けれど、とも思う。

 果たしてアドレーは、簡単な忠告を守らずサラティアに近づく田舎令嬢を認めるだろうか。きっと認めない。



 ——それなら、アドレー様の言う通り、ビブロス様には関わらない方がいい。いいに決まってる。……でも、でも! はじめてのお友達を作るなら、ビブロス様がいい!



 イェリナは思い切って踏み出した。メラメラと燃える心を抱えてサラティアを追いかけようと手を伸ばし、けれどもすぐに引っ込めた。一歩前へ進んだ足も、ピタリと止めた。


 オレンジ色の髪をした女子学生が、サラティアに声をかけたから。そして、イェリナには見せない微笑みを浮かべて応じる姿を見てしまったから。


 それまで胸の内を焦がしていた熱い炎が、あっという間に鎮火してゆく。ついには燻る煙すら立たず、イェリナの心は氷点下まで下がっていった。

 女子学生とともに学舎へ向かうサラティアの後ろ姿を眺めながら、イェリナは自分に言い聞かせるように繰り返した。



「すべては眼鏡と単位のために。すべての単位は眼鏡のために」



 そうだ、そこはブレてはいけない。イェリナは固く決意をして、けれど肩をガックリ落として学舎へ向かう。


 丸まった背中が朝の静かな日差しを浴びていたけれど、イェリナの心は寒々と冷えてゆくだけだった。







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