第13話 只今、眼鏡の演算中につき

 そういうわけでイェリナはセドリックに手を引かれ、大公家所有の馬車に乗り込んだ。


 案内された馬車の外装は赤みを帯びた焦茶ブラウンで、側面に獅子と王冠と星とで構成された紋章が刻まれている。カーライル大公家の紋章だ。

 内装はクッション性の高い座席とシンプルで品のいい装飾が施されていて、大公家の財力と感覚センスのよさを端的に表している。



「うわぁ……素敵……」



 そんな馬車の中には、すでに先客がひとり。

 燃えるような赤髪と深い緑色の眼を持つ学生が、セドリックに案内エスコートされて座席に座るイェリナをジッと睨んでいた。



「お嬢さん、残念ながら俺もいる」

「あっ! ……、…………っ」



 ——確か、アだかマだかからはじまる名前のセドリックの御友人? だ、誰だっけ? こ、こんなときは……そう、眼鏡よ!



 イェリナはそう思い、赤髪の学生をジッと見る。



「そう睨むなよ。セドリックと二人きりがよかったなら、すまないな」



 イェリナとしては睨んだつもりはなかった。名前を思い出すために、自力で眼鏡の幻を作り出そうと必死だっただけなのに。



 ——ど、どうやったら自力で幻を視れるの……? 思い出せ、思い出して。この方に似合う眼鏡は……!



 昨日できたなら、今日もできる。イェリナは自分の妄想力と眼鏡への愛を信じた。



「ははっ、無視か? お嬢さん、それは淑女レディとしてないんじゃないの?」


「……あー、待ってください待ってください、今ちょっと演算中なので……」


「は? おいお嬢さん。なにを待てって……?」



 ——確かこの方は……細身のタイプの縁なしリムレス眼鏡が似合う方!



 思うが早いか幻覚眼鏡、いや幻視眼鏡がアドレーの顔面上に構築された。途端にイェリナの表情が、パッと輝く。



「あ! アドレー様! アドレー様ですね!?」

「あ、ああ……。あー、お嬢さん? もしかして物覚えはあまり良くない方なのかな?」

「そんなことはない。アドレーの気のせいだ」



 イェリナの隣に当然のような顔をして座ったセドリックが、やや食い気味で否定する。



「なんでセドリックが答えるんだ……。まあ、いい。それで、なんだってこんな朝早くに?」


「仕方がありません。みなさんが起きる前に寮を出た方が、平和な時代になってしまったので。……すべてわたしの自業自得ですけれど」


「イェリナはなにも悪くはないよ」


「ありがとうございます、セドリック。でもわたしがわたしの事情を暴走させてしまった結果なので……それから昨日欠席してしまった授業の補填ができないかなー、と」


「……欠席届は?」

「提出できていません」

「嘘だろ、確証がないのにこんな朝早くから……? おいセドリック。俺は聞いていないぞ、このお嬢さんがこんなに根性ある人間だ、なんて」


「言いはしないよね。アドレーに言ったら気に入られて横取りされそうだから」

「待て、セドリック。お前の中で俺の評価はどうなってんだ」

「マルタン令嬢との遊びをやめたら、教えてもいい、かな」



 幻覚眼鏡の奥でセドリックの神秘的な目がスッと細まる。対する幻視眼鏡のアドレーはガリガリと首の後ろを掻いて眉を寄せた。



「……チッ、そこまでわかってんのかよ」

「わかるよ、アドレーのことだから。だからアドレーも僕のことをわかるべき」

「あ?」



 セドリックの傲慢さに短く凄むアドレー。ヒリつく空気にイェリナは息を呑んで固まった。

 のんびり平和な田舎で育ったイェリナが高位貴族同士の駆け引きといさかいの間に挟まるには、圧倒的に経験値が足りなかった。



 ——ぴえ! こ、こわい……! ダブルクール眼鏡も眼福だけど空気が……っ、空気がこわい!



 けれどイェリナは意を決し、色を失った顔で二人の会話に口を挟んだ。



「ま、ま、待って待って、そこまで! そこまでにしましょう!」

「イェリナ……いいの? アドレーを屈服させないと僕たち、踊れないけど?」

「く——!? なんでそんな物騒なこと言ってるんですか! ダメです、ダメーッ!」


「……なあ、お嬢さん」

「な、なんですか、アドレー様」

「お前、セドリックが怖くないのか?」



 アドレーの唐突な質問に、それまでビクついていたイェリナはきょとんとした。

 イェリナは隣に座ってまぁるく笑うセドリックと、神妙な顔つきでイェリナを見つめるアドレーとを見比べる。



「怖い……? セドリックのどこが怖いのですか? こんなにふわふわしてるのに」



 ——それに眼鏡だし。自由自在の幻覚眼鏡だし。



「ふ……? は、ははっ、ふわふわ?  あーそう来るのか」



 イェリナの答えのどこに笑いのツボがあったのか、それとも笑いの沸点が低いだけなのか。アドレーはひとしきり笑って落ち着くと、どうしてか清々しい表情でセドリックと向き合った。



「セドリック、俺は降りる」

「わかった」

「えっ。……え? な、なにから降りるんですか?」

「悪いがこれ以上、お嬢さんと同じ空気は吸えない。俺はここで降りる」



 アドレーは、ひとり慌てて間抜けな顔を晒すイェリナに立てた人差し指を突きつける。



「魔性のお嬢さん。セドリックだけじゃなく、サラティアにも気にかけてもらっているようだが、調子に乗るなよ。あいつは曲がったことが嫌いなだけで、お嬢さんに関心があるわけじゃない。……いいな?」


「え、あの……ちょっと! せ、セドリック、アドレー様が本当に行っちゃいますよ!? いいんですか?」



 イェリナは慌てふためいた。セドリックは馬車を降りるアドレーの背中をただ眺めているだけ。

 それどころか、扉が静かに閉まった途端、セドリックはイェリナの腰を抱き寄せた。そうして、イェリナの細い肩にひたいを押し当てながら、くすりと笑う。



「いいんだよ、イェリナ。アドレーは気を利かせたんだ。気にすることはない」

「絶対に違うと思いますけど!?」



 イェリナの悲鳴を無視して馬車はガラガラと進み出す。

 大公家の馬車ともなれば、車両と懸架装置サスペンションに魔法が仕込まれていて、酷く揺れることもない。

 快適で広い車内で、物理的距離感が独特なセドリックの体温を感じながらイェリナは思う。



 ——セドリックはわたしのこと、ぬいぐるみかクッションだと思ってるのかな?



 イェリナに抱きつくようにして座るセドリックの幻覚眼鏡をぼんやりと眺める。


 早起きをして眠いんだろうな、と思いながら、馬車に揺られて学院アカデミーへと運ばれゆくまま身を任せた。イェリナだって早起きをして眠いのだ。


 けれどイェリナは、少しでもセドリックの幻覚眼鏡を眺めていたくて、眠気覚ましにと窓を見る。

 窓に映るセドリックの顔には幻覚眼鏡が見えなかった。イェリナの目には、確かに眼鏡が見えるのに。



 ——やっぱり幻覚なんだわ……非実在眼鏡なのね。



 イェリナは視れはすれど触れることのできないセドリックの眼鏡(幻)に勝手に落胆して、少しだけ長く息を吐き出した。








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