2.緩やかな溺愛よりも眼鏡しか視えない

第12話 眼鏡が一番、ひとは二番

 なにか悪いことでもしている気分で、イェリナは音を立てないよう慎重に寮の門を開けた。


 もうじき夏がはじまろうとしているこの季節であっても、王都の朝は冷える。寮門の隅から顔をのぞかせている雑草に朝露を見つけて、昨日の奇跡のような出会いに思いを馳せた。



 ——今日も視れるかしら……あの素敵な眼鏡さま。まさか、今日はもう視れない……なんてことはないといいのだけど。



 朝冷えか、それとも予感か。イェリナは震える身体を抱きながら門の外へ出た。



学院アカデミーって、こんな朝早くからでも開放されてるのかな……」



 イェリナは人気ひとけのない路上でぽつりと呟いた。いつもより二時間早く起きたイェリナは、朝食も取らずに寮を出てきたばかり。


 昨日すっぽかしてしまった三つの授業について、できるだけ足掻いてみようと思ったのだ。


 どうにかして教授たちから再講義してもらえないだろうか。せめてノートかレジュメだけでも……いや、せめてヒントだけでも欲しい。眼鏡開発に関わるかもしれない部分だけでもいいから!


 そんな焦燥感がイェリナをいてもたってもいられなくして、目覚めはパッチリ、動悸は激しく、焦る気持ちが行動力へと変換された。



 ——せめて昨日、欠席届を出せていれば……。



 貴族子息や令嬢が通う学院アカデミーは、欠席届さえ出せば授業の再履修が可能だ。

 家庭や領地の事情で欠席する学生が後からでも授業内容を確認できるように、と配慮されている。



 ——こんな朝早くから迷惑かな……追い返されたりするのかな。でも、スカディア教授のような人たちばかりじゃない……よね?


 イェリナは昨日、十七年間目立たず地味に生きてきて、生まれてはじめて悪意がこもった他人ひとの視線を浴びた。


 それも頭の天辺てっぺんから足のつま先まで全身だ。あの刺すような冷たい視線を思い出し、イェリナの身体がブルリと震える。


 大公子息と男爵令嬢。身分の差が頭にないイェリナではない。


 なぜかセドリックの顔に眼鏡の幻覚を視てしまうから昨日は暴走してしまったけれど、イェリナはしっかりわきまえている。



 ——眼鏡が一番、ひとは二番! ああ……セドリックを狙っているんじゃなくて、単位だけ欲しいんだってこと、どうやって知ってもらえばいいんだろう。



 貴族令嬢としての教育と学生としての青春は、眼鏡を盲信するイェリナの前では完全に敗北していた。



「単位も理解も眼鏡も欲しい……」

「イェリナ、おはよう」

「……えっ。え? せ、セドリック?」



 こんな朝早くから学院アカデミーおもむくなんて、勉強熱心な学生か、飲食代が学費に含まれている喫茶カフェテラスで朝食にありつこうとしている貧乏学生くらいだと思っていたから驚いた。


 イェリナの視線の先には、にこやかに手を振るセドリック——の、麗しい幻覚眼鏡顔。


 それを見て、しおれていたイェリナの心が燃え上がる。



 ——ああっ、今朝もなんて素晴らしい眼鏡(幻)なの……ッ! 逆台形ウェリントン型フレームのクラシックスタイルが制服と相まって朝なのに心拍数が……! ああ、もっと、もっと近くで拝みたい……!



 ドックンドックン高鳴る胸を押さえ、じゅるりとしたたよだれすすりながら、イェリナはセドリックの元へと駆け寄った。



「お、おはようございます、セドリック! ……あのどうしてここに?」



 乱れる髪など気にせず首を傾げるイェリナ。その手をセドリックがさりげなく取り、指先をそっと握りしめた。



「君を迎えに」



 イェリナの指先を見たセドリックの整った眉が僅かに寄る。けれどすぐに何事もなかったかのように眉間の皺を緩めると、イェリナの細かい傷でいっぱいの指先にくちづけた。



「あ……ありがとうございます? え、でもなぜ……」

「心配だったから。それじゃ、ダメ?」



 イェリナの顔を覗き込むようにして屈むセドリック。幻覚の中でしか味わうことのできない化学素材ケミカルの透明感のあるフレームが、朝の光を浴びて輝いている。



 ——あっ、あっ、あー! 眼鏡フレームから覗く上目遣いは反則ーッ! 眼鏡角度が完璧すぎるーッ!



 上部リムとの隙間から覗く黄緑色イエローグリーンライト。イェリナの思うがままに変化してきらめく化学素材ケミカルの太いフレーム。


 イェリナの心を鷲掴みにしたのは後者だ。

 黄色基色ベースのべっ甲柄から単色ブラウン、果ては艶のあるブラックにまで。イェリナは幻覚フレームを自在に変化させ、カラー変化バリエーションを堪能した。



 ——凄い。幻覚ならではの変化バリエーション……!



 朝食を食べていないのにイェリナのお腹はもう満腹だ。眼鏡とのふれあいは、たとえ幻覚であろうとも心を満たす。



「イェリナ、ねえ、ダメ?」

「あっ……ダメ、では、ない、です……」



 頬を朱で染め、視線は下へ。イェリナを恥じらわせたのはセドリックの顔面力ではなかった。


 イェリナはセドリックの圧倒的眼鏡顔(幻覚)に降参したのである。







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