第15話 錬金術とチタン合金フレーム
愛する眼鏡のために、と決意も新たにしたイェリナは、教室の可動式黒板に書かれた内容を熱心に書き取りながら、お腹に力を入れて背筋を伸ばした。
今朝、幻覚眼鏡を摂取したことで満たされた空腹が、今になって疼き出したから。お腹の音が鳴らないよう、なだめるように机の下でそっとさする。
——あと少し。この授業が終われば
第一講義を孤独なまま乗り切り、第二講義はイェリナが一番力を入れている錬金術基礎の授業。次年度の錬金術実践に繋げるための座学の授業だ。
「今日は趣向を変えて、諸君らに問題を出したいと思う。さあ、教科書とノートを閉じて」
ゼント教授の鋭く暗い目が、教室中を睨め回す。不安でざわつく学生たちの声に混じって、遠回しにイェリナを揶揄する囁きが聞こえてきた。
「……最近、多いよな。普段、学生に解答させない教授が指名して答えさせるのとか」
「ああ……どこかの田舎令嬢が恐れ多くも大公子息に声をかけてから、だろ?」
クスクスと嘲る笑いが起こっても、ゼント教授は無視したまま。けれどイェリナは気にしなかった。気にしないどころか、高鳴る胸を押さえてゼント教授を見る。
——当てられたら質問をしてもいいのかしら!? 錬金術の大家である教授には聞きたいことが山ほどあるのよね……!
眼鏡のために真面目に受講していた授業だ。教科書はもう三周以上読んでいるし、ノートだって角の方がよれるほど何度も見返している。
余裕を見せるイェリナと、ピリつく教室。イェリナを除く誰もがゴクリと喉を鳴らしてゼント教授を注視する。
そして。
「バーゼル嬢」
と。ゼント教授が静かに呼んだ。途端に静まり返る教室。ひと呼吸開けて、ざわめきが戻る。みながイェリナをジッと見ていた。
「……ああ、そういうこと……あの方、カーライル様に無礼な真似をしたのだもの。仕方がないわね」
「確かゼント教授は、イザベラ様の親戚筋でしたわね……」
「ははっ。バーゼル嬢、終わったな……」
そんな外野の声が聞こえたような気がしたけれど、キラキラと目を輝かせ溢れるような笑顔でイェリナは静かに立ち上がった。
「バーゼル嬢、君に答えて貰おう。……錬金術では石ころから黄金を作り出せない理由は?」
「はい。現在の魔法では太陽を超える高出力のエネルギーを作り出せないからです。例えば鉛から金を精錬するには、鉛が物質として安定しすぎているので、金に変成させるためには莫大なエネルギーが必要です」
「鉛以外ではどうかね、バーゼル嬢?」
「鉛以外でしたら水銀でしょうか。過去、水銀から金を精錬したらしい、と聞いたことがあります。ですが、やはり水銀を金に変成させるエネルギーを魔法で作り出すのは難しいですし、もしできる人がいたとしても、安全で実用的な金を作れるかは別の話です」
「水銀から作られる金は、安全ではない、と?」
「はい。作れたとしても放射性……えっと、呪いのような効果を恒常的に帯びた金になってしまいますよね」
と答えたところで、この知識は前世の知識だったかな、とイェリナは気づいた。教科書にも載っていない知識を披露したイェリナを、ゼント教授が呆然と見ていた。
魔法があるこの世界でも、石ころや鉛から黄金は作り出せない。
けれど魔法は、膨大な
鋳造工場や製錬所がなくても、小さな手のひらの上で様々な物質を造り出せる。それがこの世界での錬金術だ。
——わたしの本命は
イェリナはチタン合金フレームのスリムな眼鏡を頭の中で思い浮かべながら、ゼント教授を見る。教授は教壇でイェリナを睨みつけながらワナワナと震えていた。
「あ、あの……教授?」
——あっ。……やっぱり教授もノー眼鏡人だから、わたしと相性が悪いのかな。
けれど、心が曇るその直前でイェリナの脳裏に浮かんだものがあった。
今朝、早朝にも関わらずイェリナを心配して迎えにきてくれたセドリックの麗しい眼鏡顔(幻覚)。それから、昨日の授業のノートをまとめて渡してくれた親切なサラティアのノー眼鏡の凛とした顔。
——でも、ノー眼鏡人でも優しく親切にしてくれるひとはいる、のよね。……セドリックが眼鏡人なのかノー眼鏡人なのかはわからないけれど。
胸の内がじんわりと暖かくなるような、キュッと締めつけられるような不思議な感覚。それがイェリナの硬く乾いた心を緩めてくれている。
そんな風に気が緩んでしまったのがよくなかったのか。イェリナのお腹が空腹を訴えて、ぐぅぅぅぅぅ! と鳴ってしまったのだ。
「……ぷッ、ははっ」
誰が最初に噴き出したのか。その笑い声がきっかけとなった。教室中にクスクスとイェリナを嘲笑う冷めた声が
意図せず顔が赤くなる。背中が熱い。噴き出す汗で気持ち悪い。
——あっ、あー……、やっぱり、やっぱり……わたしとノー眼鏡人は……相性が悪いのかな……。
丸まる背中に歪む顔。無意識のうちにくちびるを噛み、制服のスカートをぐしゃりと握りしめていた。足元がグラグラ揺れる。膝が震えて顔も上げられない。
——こわい。眼鏡じゃないひと、みんな、こわい。
と前世から続く恐怖で足が
「イェリナ・バーゼル男爵令嬢! 顔をお上げなさい、イェリナ様! スカートを握りしめてはいけません、シワになってしまうでしょう?」
俯いて震えるイェリナを叱咤するような鋭く凛と響く声。サラティアだ。
教室の後方に座っていたサラティアがイェリナを真っ直ぐ見つめて立っていた。彼女はゆっくり歩いてイェリナの元へ向かう。
「……ビフロス、様……? ど、どうして……」
「愚問ですわ、バーゼル男爵令嬢。貴女は素晴らしい解答をしました。わたくしも知り得ない知識を披露しました。笑われるのではなく褒められるべきです。
サラティアの発言で教室中に満ちていた嘲笑が消えた。それまで笑っていた学生たちは、みな居心地悪そうに縮こまる。
「そうですよね、ゼント教授。では、バーゼル男爵令嬢の評価を。……あら、ゼント教授? どうなされましたか?」
話を振られたゼント教授は苦虫を噛み潰したような顔をして、乱れてもいない教科書を整理してから頷いた。
「……あ、ああ……そ、そうだな。バーゼル嬢、素晴らしい解答だった。これからも励むように」
「あ、ありがとうございます、教授」
「もうひとつ。そのうるさく鳴っている腹の音を静めてきたまえ」
そう告げたゼント教授が手をひと振りした。
イェリナは強制退去の魔法によって、あっという間に教室外へと放り出されてしまったのである。
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