第16話 譲れと言われましても

「……よし。ご飯食べよ」



 教室を追い出されてしまったことで他人の目を気にしなくてよくなったイェリナは、すぐさま気持ちを切り替えた。

 空腹を訴えることを覚えたお腹が何度か、ぐぅ、と鳴り続けているからだ。



「今日はお弁当サンドイッチを用意できなかったから……喫茶カフェテリア食堂ダイニングね。うーん……喫茶カフェテリアにしよう」



 イェリナは目的地を決めると、まっすぐ喫茶カフェテリアへと向かい出す。

 一刻も早くこの荒ぶる空腹を鎮めなければ……! そんな義務と焦燥感に襲われて足も早くなる。


 急ぎ足で廊下を曲がり、学舎を出る。喫茶カフェテリアへ続く渡り廊下を駆け出しそうになったところで、



「イェリナ。どうしたの、授業は?」



 と。ばったり出会でくわしたのは、セドリック。それからアドレーの姿。それは、逆台形ウェリントン型フレームの幻覚眼鏡と、縁なしリムレス幻視眼鏡の共演だった。



 ——やっぱり素敵……! 学院アカデミーに眼鏡、合う。制服に眼鏡、最高!



 ひとり静かに胸の内で猛るイェリナに、セドリックが心配そうな顔をして近づいてきた。



「どうしたの、イェリナ?」

「セドリック、あ、あのですね……」



 イェリナしか視えない眼鏡に萌えていたのです、とは言えずに言い訳を探していると、空腹を忘れるなと主張するように、ぐぅぅぅ、とか細い声でお腹が鳴いた。

 途端にイェリナの顔に血が昇る。



「ふは! なるほどなるほど、失態でもおかして追い出されたのかと思ったが、そっちの理由か」



 アドレーの笑い声にイェリナは教室で笑われたことを思い出した。条件反射で肩に力が入る。けれどその肩に、ぽん、と優しく触れる手があった。セドリックだ。

 セドリックはイェリナの肩を抱き寄せて、アドレーと真正面から対峙した。



「アドレー。イェリナは授業を追い出されるような不出来な人間ではないよ。それに制御コントロールが難しい生理現象は笑うべきじゃない」


「……お前、昨日とは随分な変わりようだな。趣旨変えか?」

「イェリナは僕の大切なひとだからね」


「はー……、おいセドリック。お前、婚約者がいまだに決まってないからっていう単純な理由だけで、手頃な田舎の男爵令嬢に決めようとしているだけなんじゃないのか?」


「僕がそんな真似、すると思う?」

「思わない。だが……とりわけ執着するような魅力を感じないんだよ、このお嬢さんにはな」


「それはアドレーがイェリナを知らないからでしょ」

「いやいや、わたしもセドリックのこと、全然知りませんよ!? それに、アドレー様の言っていることはもっともです!」



 ムキになってアドレーに反発するセドリックに、イェリナは思わず突っ込みを入れていた。



 ——昨日の今日でどうしてわたし、セドリックの大切なひとに昇格してるの!? 全然わからない! セドリックがわからない!



 混乱するイェリナの姿に、アドレーがほんの少し敵意を和らげた。幻視眼鏡の奥で深い緑色の目が、すぅっと細まる。



「ははは! いいねぇ、お嬢さん。よし、知らないようだから教えてやろう。セドリックはな、今は爵位を継承する前だから大公子息を名乗ってるが、学院アカデミーを卒業したらセーリング子爵になるって決まってるんだ」

「セーリング……子爵、ですか」



 その名前だけは知っている。カーライル大公家が保有する爵位の一つで、同名の領地もあったはず。



 ——セーリング領がどんな領地なのかは、知らないけれど。



 イェリナがぼんやりと頭をめぐらせていると、アドレーがニヤリと意地の悪い笑みを浮かべて続けた。



「ああ。不毛の地って呼ばれる荒地の領主だ。……お嬢さん、この事実を知ってセドリックから離れていった令嬢は山の数ほどいる。そして、在学中だけの恋人志願者も同じだけいる」

「はぁ……そう、なんですか……」



 イェリナは気の抜けた返事をしながら、セドリックの横顔を盗み見る。

 顔色ひとつ変えずにイェリナの長い髪の毛先を指に絡めている姿を見て、どうしてか胸がギュッと締めつけられる。



 ——セドリック……なんでもないことのような顔をしているけど……そんな他人ばかりでセドリックは他人を……女性を信じることができているのかな。



 アドレーが語ったセドリックの事情は、どこかイェリナの前世と似通う部分があったから。



 ——ああ、わたし、そんなひとに……眼鏡と単位目的で近づいてしまったのだわ……。



 この思いは後悔だろうか、それとも罪悪感か。

 イェリナは痛む胸をそっと押さえて奥歯を噛んだ。セドリックへの特別な思いなんてなかったはずのイェリナの気持ちが、深く深く沈んでゆく。

 かげるイェリナの薄茶の瞳に気づいたアドレーが、ここぞとばかりに追撃してくる。



「だがな、イザベラだけは別だ。あいつはセドリックがセーリング子爵になっても、不毛の地に行ったとしても構わない、と言っている。……それに、マルタン侯爵家には莫大な資金もあるし、現侯爵はイザベラを溺愛している。セーリング領で何不自由なく娘が暮らせるために、侯爵は資金提供を惜しまないだろう。……だからな、お嬢さん」



 アドレーの深い緑色の目がまっすぐイェリナを捕らえていた。



「イザベラに譲れ」



 思わずコクリと頷いてしまいそうになるくらい、迫力のある視線と言葉だった。


 イェリナがアドレーの顔面にい出した縁なしリムレス眼鏡がなかったら、頷いていたかもしれない。



 ——こわいこわいこわい! でも、でも、どんな事情があっても譲れないの!



 アドレーの真剣さに当てられて奥歯がガタガタ震えた。血の気が引いた真っ青な顔で、イェリナは無意識にセドリックの腕にしがみついていた。



 ——わた、わたし……単位のためにセドリックと星祭りに参加したいだけなのに……。



 高位貴族の考えていることは、よくわからない。

 イェリナのなにを警戒しているのだろう。アドレー自身が言っていたじゃないか。手頃な田舎娘のなにをそんなに恐れているのか。


 震えるイェリナの肩を抱くセドリックの手に力がこもる。その力強さにイェリナの震えが少しだけ止まった。



「アドレー」

「……なんだよ」

「僕はイェリナがいい。いや、イェリナでなければ駄目なんだ」



 淡白なのに柔らかなセドリックの声が、イェリナの耳と心とを打つ。完全に自分を取り戻したイェリナは、セドリックの発言にわかりやすく狼狽えた。



「えっ。……え!? セドリックなにを言っているんですか!?」

「事実を言っただけ。それにイェリナも、僕しかいないんでしょ?」

「それはそうですよ、わたしにはセドリックしかいません!」



 ——唯一無二の自在幻覚眼鏡を持つひとは、確かにセドリックしかいないから。



 即答したイェリナに、セドリックが柔らかく微笑んだ。



「でしょ。なら、なにも問題はない」

「なにも、問題は……ない? 確かに、なにも問題は……ありません、ね……あれ?」



 セドリックが導いたシンプルな答えにイェリナは混乱した。

 なにかが決定的に食い違っているはずなのに、逆台形ウェリントン型フレームの丸みを帯びた優しさと相まって、イェリナはセドリックの言葉に反論するどころか、逆に受け入れてしまう。



「あのなぁ、セドリック。お前がそう言っても俺は協力しない、と言ってあるが?」





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