第17話 もしやこれは悪女では?

 ——あっ、どうしよう。セドリックとアドレー様の仲を壊したいわけじゃないのに!



 ひとり動揺するイェリナの腰を冷静なセドリックがぎゅっと抱き寄せた。それを見てアドレーの表情がますます険しく尖ってゆく。



「星祭りでパートナーを組みたいなら、推薦人と保証人は別のやつを探すんだな。……そうはいっても、マルタン侯爵令嬢を敵に回すような気概のあるやつがいるとは思えないが」


「あっ、アドレー様! ……行ってしまわれた……」



 遠ざかるアドレーの背中を見つめながらイェリナは気づいた。


 アドレーがイザベラを推しているのは、セドリックの将来を考えているからだ、と。


 愛しているわけでも恋焦がれているわけでもない。政治的や経済的に有利であることもなく、セドリックの出世や領地のために役立つような人脈も知識もない。


 イェリナにあるのは眼鏡への愛と執着だけ。

 転生者の知識があるといっても、眼鏡知識に偏っている。


 今世には眼鏡がないから人の顔と名前を一致させられない、と嘆いたこともあった。だからイェリナは、貴族名鑑や紋章、徽章の知識を詰め込んで、どうにか無礼を回避している。


 必死で覚えたその知識も、学院アカデミーでは高位貴族の方々しか紋章や徽章を身につけてくれないから、まるで役には立っていないけれど。



 ——ああ……わたしには本当に眼鏡しかないんだわ……。



 このままではアドレーに認めてもらうなんてことは夢のまた夢だ。セドリックにだって、いつか愛想を尽かされてしまうかもしれない。

 そう思った途端、顔は青褪め手が震えだす。けれど、冷たく震える指先を暖めるように、セドリックの指がイェリナの手を包んだ。



「アドレーにも困ったね」

「……アドレー様は、セドリックを大切に思ってらっしゃるから」

「そうだよ。でも、イェリナのことだけは譲れない。……譲れなくなってしまったから」



 そう言ってイェリナを見つめるセドリックの黄緑色の眼イエローグリーンライトが、柔らかいだけじゃなく真剣な光を宿していた。



 ——綺麗。こんな綺麗な目に、見つめられているなんて……。



 イェリナは笑って茶化すことも、セドリックの心のうちを聞けるはずもなく、頬に熱が集まってゆくのを自覚しながらうつむいた。

 だから、イェリナの視界の端でセドリックがかけた幻覚眼鏡がチカチカと揺らめいて、消えたり消えなかったりを繰り返していたことに気づくこともできなかった。





 その後、冷静さを取り戻したイェリナが、喫茶カフェテリアへ行くのだ、と言うと、セドリックも一緒に行くことになった。



「イェリナの昼食ランチ、僕が選んでもいい?」

「は、はい。お願いします。食べられない物はないので、なんでも大丈夫ですよ!」

「わかった。イェリナは露台テラス席にでも座って待っていて」



 そう言って微笑むセドリックの顔には、逆台形ウェリントン型ではなく楕円形オーバル型フレームの眼鏡が浮かび上がっている。



 ——はぁ……落ち着く……基本形フレームはやっぱり落ち着く……。



 ちょっと気分転換に、とイェリナが強く思うことにより、セドリックの幻覚眼鏡は形を変えた。

 やっぱりイェリナにとって、セドリックは特別なひとだ。

 生まれ変わって十七年間、眼鏡のない世界で生きてきた。そこに現れたのがセドリック。


 理由も原理もわからないけれど、イェリナの妄想をそのまま映しだす幻覚眼鏡から離れることなんて、もう考えられない。

 けれど。



 ——わたし、セドリックを利用するだけの人間になってる……他の人たちと、同じ……。



 イェリナの良心がズキリと痛んだ。深く鋭い痛みに顔が歪む。

 その痛みは胸を抑えても治る気配などなくて、あまりの痛さにイェリナの思考が明後日の方を向く。



 ——そうだわ! 星祭りの単位を取るまで……それまで、わたし、悪い女になろう。



 星祭りが終わるまで悪女になる、という目標と期限を自分に課したことでイェリナは随分と気分が楽になった。


 鼻歌でも歌い出しそうな暢気さで、セドリックを待つために喫茶カフェテリア露台テラス席のひとつに着く。セドリックはまだかな、と呑気に周りを見渡していると、



「イェリナ・バーゼル男爵令嬢。お話がありますの。少しお時間よろしくて?」



 と、イェリナにかかる聞き覚えのある刺々しい声。

 昨日聞いた声だわ、だなんて思い出しながら、イェリナは声のする方に顔を向けた。

 そこにいたのは、イェリナを蔑むような目で見ている令嬢と、その後ろに控えるようにして佇むふたりの令嬢。


 先頭に立つのは白金色の美しい令嬢。その背後には、勝ち気な表情でオレンジ色の髪を肩に垂らした見知らぬ令嬢と、鷲と鉱石の意匠が施された襟止めブローチが輝く、綺麗に巻かれた少し暗めの金髪を持つ令嬢だ。


 オレンジ色の髪の令嬢は、百合となにかが意匠された襟止めブローチをつけてはいるものの、髪に隠れてよく見えない。



 ——ビフロス様……?



 御令嬢の背後で控えるように佇むサラティアは、渋々付き添っている、という表情を隠しきれてはいなかった。



 ——あのビフロス様が表情を隠しきれていないなんて……。



 イェリナがサラティアの様子に気を取られていると、



「あら、田舎娘のくせにお耳が悪いのかしら? お話がありますの、少しお時間よろしくて?」



 と。白金の御令嬢の一音一句区切り強調するような物言いと、覚えのある高圧的な態度から、慌ててイェリナは逆算した。



 ——あれ? もしかしてこの御令嬢とわたし、面識が……? もしかして昨日の……マ、マ……マリラン様? 違う……そんな家名は存在しないわ!



 イェリナの頭の中で紋章や徽章と家名が結びついているといっても、昨日の御令嬢——イザベラは制服のどこにも家門を示す印がなかった。

 だから、名前を思い出そうにもどうにもできず、イェリナができることといえば視線を伏せてお断りすることだけ。


 白いカフェテーブルの下でぎゅっと手を握り締め、イェリナは勇気を奮って口を開いた。



「あの……時間を改めていただくことは……」



 イェリナの視線は斜め下。不穏な空気を醸し出すイザベラの長い足が苛立たしげに組み替えられるのを見て、思わず背筋がブルリと震える。



「どうして? あなた今、ひとりじゃない」



 頭上に降ってきたのは酷く冷たい無機質な声。その声に、イェリナは咄嗟に、マズい、と思った。伏せていた視線を上げ、イザベラの紫色の瞳をどうにか見つめる。



「わ、わかりました。……な、なんのご用で」

「あなた、セドリック様の周りをうろちょろするのはやめなさい。いい加減、分不相応だと気づきなさい。あなたにセドリック様のダンスの相手はもったいないわ」


「うろちょろした覚えはありませんのでご期待に応えることは難しいかと存じます。それに、わたしにも事情があるので」



 ——悪女になると決めたもの。誰かに強く言われたくらいで、単位セドリックを諦めるなんて、しない!



 イザベラの紫色の目の奥で燃える怒りの火に気押されながらも、イェリナは一歩も引かなかった。



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