第24話 禁断症状〜物理眼鏡への愛

 どこをどう走ったのかは、わからない。イェリナはただ、客室へ案内された道順を遡って駆けただけ。途中、使用人とすれ違うことがなかったのは、きっと幸運が働いたのだろう。



 ——眼鏡、眼鏡……!



 イェリナの頭を支配するのは眼鏡の存在ただひとつ。


 裸足のまま大公邸の庭を駆け抜け、あと少しで門へ辿り着く——そのときだ。イェリナの行手を阻むように立ち塞がる長身の影。

 雲からわずかに覗いた月明かりが、燃えるような赤い髪を浮かび上がらせている。



「あっ、あ……」



 駆けていた脚がぴたりと止まった。眼鏡以外に気を取られたことで、イェリナの元に現実感が戻ってくる。呼吸もまともにできないくらいイェリナは息が切れていた。



「お嬢さん、夜の散歩かな?」



 カーライル大公邸の門からあらわれたのは、アドレーだった。身につけている学生服はどことなく乱れ、シャツのボタンが飛んでいる。月光に照らされた頬にはうっすらと赤い紅葉の模様。



 ——えっ……え?



 だからイェリナは混乱を通り越して、逆に冷静になることができた。



「こ、こんな夜更けにどうして……ここは大公邸ですよ?」

「なんだ、セドリックからまだ説明されてないのか。もともと、俺の家がカーライル大公家に仕えているのもあって、俺は大公邸に部屋をもらって数日置きに厄介になっているのさ」



 頬の紅葉も制服の乱れも隠そうとしないアドレーが、カラカラと笑う。



「それにしても、まさか俺が出ている間にセドリックがお嬢さんを家に連れ込むとは思っていなかったな。……なあ、お嬢さん。君のどこにそんな魅力があるのか、俺に教えてくれないか?」



 アドレーの目が捕食者のようにすぅっと細まる。ボタンが飛んだシャツの隙間から覗く肌が、なんともなまめかしい。

 途端にイェリナの頬に熱がこもった。



 ——これは、これは……これは見てはいけないものだわ!



 イェリナはアドレーの肌から目を逸らし、ジリジリと後ずさって距離を取る。



「あ、あの……、わたし……先を急いでいるので!」

「待て、待てよお嬢さん。すまない、冗談が過ぎた。こんな夜更けにどこ行くんだ、って話。いくら王都の治安がいいからって、夜更けに淑女レディがひとりで歩いていい場所はないぞ」



 慌てて弁明するアドレーにイェリナはほんの少しだけ警戒を解いた。



「……その、寮に戻ろうと思って……」

「寮に? どうして。このまま朝まで大公邸に世話になっていればいいんじゃないか?」

「でも、わたし……——がないと……眠れないし起きれないし生きた心地がしないし挙動不審になるし泣けてくるし、とにかく、——がないと駄目なんです!」

「……は? なんて?」


「ですから、わたし、眼鏡がないと生きていけない人間なんです!」



 まるで禁断症状のように手足が震える。眼鏡の名を口にしたことで、余計に飢餓感が増してしまった。

 そんなイェリナの切実なる訴えは、けれどアドレーには届かなかった。



「……め、メガ? ……そういや、この前もセドリックのことメ、メ、メガ……なんとかって呼んでたな」


「メガなんとかじゃなくて、眼鏡です。わたしの大事な大事な眼鏡様! 部屋の金庫にしまってあるんです!」


「ふーん。よくわからない話だが、助けてやろうか」

「え?」

「寮に戻りたいんだろ? 俺もお嬢さんに借りがあるから返したい。な? 悪い話じゃないだろう?」

「それは、そうなんですけど……でも……」



 きっと、アドレーの手を借りれば、すぐにでも寮に戻ることができるのだろう。けれど、イェリナを忌避していたアドレーが、どうしてそんなことを言うのかもわからない。

 だからイェリナは躊躇った。アドレーの提案に頷くことなく首を振る。縦へではない、横へだ。



「なに? 俺が信用できない?」

「わたし、あなたに認められるように頑張るってセドリックと約束したので」



 これはアドレーを信じていいのか悪いのか、そんな話なんかじゃない。イェリナがはじめてセドリックと交わした約束の問題だ。



「ですから、ここであなたの手を借りるのは、ちょっと」



 アドレーと距離を取りつつも毅然とした態度でイェリナは言った。サラティアのように背筋を伸ばし、凛とした態度でアドレーと対峙する。

 すると、だ。

 アドレーが肩を震わせ、腹を抱えて笑い出したのだ。



「ふ、ふ、ふは! 手段を選ばないわけでもないのか。お嬢さん、やっぱり面白いな」

「面白いと言われましても、わたしは至って真面目に話しているのですけど」

「いや、十分面白い……困ったな、それがお嬢さんのやり方か? 気を抜くと絆されそうになる」



 ひとしきり笑ったアドレーが、イェリナをジッと見つめていた。夜だからか深みを増した緑色の目が、はじめて優しく弧を描いている。

 その微笑みにイェリナの警戒心が少しだけ緩んだ。信じてもいいのかもしれない、とイェリナが一歩踏み出そうとしたときだった。



「イェリナ!」



 短く名前を呼ばれたときには、イェリナはもうセドリックの腕の中にいた。



 ——えっ……え? せ、セドリック? 待って、これじゃあセドリックの眼鏡(幻)が視えない!



 決して離さない、という意志が込められた腕がイェリナの身体に巻きついて、その顔をセドリックの胸元へと押しつけている。



 ——幻でもいい、眼鏡を……眼鏡を補給したいのに!



 切実なるイェリナの思いは叶えられることなく、飛び出してきたためボサボサになってしまった頭の上で、セドリックがアドレーと話しはじめた。



「アドレー、よくやった」

「お嬢さんを引き留めておいた俺に感謝しろよ」

「えっ。……え? ちょっとアドレー様! 助けてくれるんじゃなかったんですか!?」

「ごめんな、お嬢さん。俺の主人あるじはお嬢さんじゃなくて、セドリックこいつだからさ」



 だからはじめからイェリナを大公邸の外へ出すつもりはなかったのだ、とアドレーが片目を瞑るのを、セドリックの腕からどうにか逃れたイェリナは見た。



「そ、そんな……」

「ま、俺としてはお嬢さんがこのまま寮に戻ってくれた方が都合がいいんだけど」

「アドレー」

「別にいいだろ、それくらい。お前がよくても俺が気まずいんだよ! ……あーあ、結局、お嬢さんに借りは返せないままか」


「……借り? さっきもおっしゃっていましたけど……わたし、アドレー様になにか貸した覚えは……」

「イェリナ、君は気にしなくていい話だよ。アドレーが勝手に借りたと思っていることだ。……アドレー、決めたのか?」

「ああ、決めた。この後、清算してくる」



 決めたって、なにを? 清算って、なに? とは聞くことはできなかった。

 セドリックの黄緑色の目も、アドレーの深い緑色の目も、どちらも真剣そのもので、その間に割って入れるような雰囲気ではなかったから。



「それならいい。……イェリナ、行こう。……話を聞かせてくれるね?」



 セドリックの逆丸三角形ボストンフレームの幻覚眼鏡が、月夜の光を受けてぼんやり輝いている。そんな幻想的な眼鏡風景に満たされ見惚れてしまったイェリナは、寮へ戻りたい気持ちとは裏腹にコクリと小さく頷いた。


 だからイェリナは大人しくセドリックに方向転換させられて、寮へ戻ることは叶わなくなったのであった。













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