第23話 ここは眼鏡の楽園かな?

「なんてことなの……どうしてわたし、セドリックの家に……?」



 王都郊外に建つカーライル大公邸の豪華な客室で、ふかふかな寝台ベッドに仰向けになりながら、イェリナは茫然と呟いていた。



 ——どうしてこんなことに?



 いまだ混乱がおさまらない頭を無理矢理動かして思い出す。この部屋に通される遥か以前、セドリックに手を引かれて馬車に乗ったところまでははっきりと覚えている。


 その後、広い車内であるのにイェリナの隣に座るセドリックの横顔にさまざまな幻覚眼鏡を顕現させて気持ちを落ち着かせていると、気づいたときには大公邸だった。

 あれよあれよという間に専用メイドなるものがつき、身だしなみを整えられてドレスを着せられ晩餐ディナーに招かれたのである。

 なんとそこにはセドリックの家族がいた。



「父上、母上、それから兄上。彼女がイェリナ・バーゼル嬢です」

「はじめまして、イェリナ・バーゼルです。西方領区の男爵家の娘で学院アカデミーに在学中です。今夜は素敵な晩餐ディナーに招待していただき、誠にありがとうございます」



 イェリナは自分が習得しているマナーと礼儀のすべてを尽くしてお辞儀カーテシーを披露してみせた。きっとギクシャクとして見ていられなかったであろう。

 けれど、だ。

 顔には笑顔を貼り付けて、けれど背中をびっしょり汗で濡らしたイェリナに、カーライル家の人々は目を輝かせて興奮していた。



「まあ! まあまあまあまあ! なんて芯の強い目をした可愛らしい子なの!? イェリナさん貴女、本当にセドリックでいいの!? いいのよね!? ああ、嬉しいわぁ……貴女が私の娘になるのね」

「あ、あの?」



 ——む、娘? 娘って、なに? 学院アカデミーの後見人制度かなにかの話かな?



「母さん、待って落ち着いて! まだ彼女にはなにも……あ、ごめんね騒々しくて。僕はジョシュ。セドリックの兄です。学院アカデミー在学時は魔法理論と方式について研究をしていました。わからないことがあればいつでもどうぞ」


「あ、ありがとうございます。……錬金術と付与魔法について研究しているので、いずれお話を聞かせていただければと思います」

「……ああ、うん。そっか、なるほどわかった。セドリック、逃してはいけないよ」



 ジョシュは、なにやら意味深に頷くとセドリックに向かって片目を瞑っウィンクしていた。

 なにを逃がさないのか、逃すのか。ジョシュがセドリックになにを伝えたかったのか。イェリナにそんなことを考える余裕はなかった。



 ——ま、待って。待って待ってまさか……!



 なぜならば、イェリナはジョシュの顔面にセドリックと同じ幻覚眼鏡を視てしまったからだ。

 であれば、とイェリナは覚悟を決めてセドリックの父親と向き合った。お腹に力を入れて背筋を伸ばし、奥歯をぎゅっと噛み締める。



「……ゆっくりしていきなさい、イェリナさん」



 ——嘘でしょ眼鏡……イケオジ眼鏡……ッ! あっ、大公様になんて失礼なこと……ッ!



 イェリナは魂の底から叫びそうになった喉に力を入れて、ぎこちない微笑みを返した。

 その反応をどう思ったのか。カーライル大公は眉ひとつ動かさず、低く響く声で話しはじめた。



「私はカーライル家当主ブレンダン。妻のメイリーヌがすまない。だが、君がよければ息子との馴れ初めをきか」

「父上ッ! ……すまない、イェリナ。僕が家族に君の話をしたから、皆、イェリナに興味津々なんだ」

「は、はぁ……そうですか……」



 イェリナが気を抜けた返事になってしまったのも無理もない。



 ——信じられない……ここは眼鏡の楽園かな?



 セドリックの母であるメイリーヌを除いた父ブレンダンと兄ジョシュが、揃いも揃って幻覚眼鏡をかけていたのだ。



 ——ど、同時多発眼鏡……ッ! 眼鏡の過剰摂取でし、しんじゃう……ッ!?



 そういうわけでイェリナは混乱と眼福の狭間で浮かれながら豪華な晩餐ディナーをいただき、さらには湯浴みまでさせてもらって現在に至る。






「おかしい……こんな……こんなの……婚約者的な扱いをされている……?」



 いったいセドリックは家族にイェリナのことをどう説明したのだろう。

 家族だけじゃない。大公家の使用人たちのイェリナに対する異様なまでな歓迎ぶりも異常だった。



 ——だいたい、専属メイドって、なに? わたし、ただのお客ゲストでは?



 それに、星祭りのドレスの話をセドリックとしていて、どうしてこんな状況になるのかわからない。

 もしかして馬車の中で話を合わせるだとか、そんなことをセドリックが話していたのかもしれない。けれど、セドリックの幻覚眼鏡で着せ替えを楽しんでいたイェリナには、そんな記憶はない。



 ——どうすればいいの、わたし……こんな丁寧な扱いをされたら……わたし。



 イェリナは大きな枕を抱きしめて、ばふりと顔をうずめて唸る。

 目を閉じると、大公家を訪れる前に見た、セドリックの真剣な眼差しが目蓋の裏にチラついた。

 眼鏡をかけていないセドリックの素顔。あんな熱い目で見つめられたのは、前世を含めて一度だってない。



 ——あんなの……あんな視線、わたしだって気づいちゃうよ……セドリック、わたしにちゃんと見て欲しいんだ……。



 それなのにイェリナはセドリックの顔にあらわれる非実在眼鏡に夢中で、彼をきちんと見たことはない。あのとき、あの僅かな時間が、セドリックを真っ直ぐ見たはじめての瞬間だった。


 幻覚眼鏡は所詮、幻覚。実質的には眼鏡をかけていないノー眼鏡人。


 きっと、心の奥でそう思っていたんだろう。だからイェリナは幻覚眼鏡ばかり見て、セドリック自身と向き合ってこなかった。



 ——セドリックはこんな怪しいわたしに優しくしてくれるのに。



「ちゃんと……セドリックとちゃんと話さないと。わたし、セドリックとどうこうなりたいなんて、思って……思って……」



 ないのだから、と言葉にして続けることができなかった。もうその時点でイェリナの心がどこを向き、なにを求めているのか、決まったも同然だ。

 だから、



「……だめ、でしょ……セドリックはノー眼鏡人なのよ……信じることは……できない」



 口にした言葉が虚しく溶ける。まるで真実味のない言葉。意味のない言葉で誤魔化すくらいなら、いっそ、前世の業も記憶もなにもかも消えてしまえばいいのに。

 イェリナは、ばふばふと触り心地のよい広い寝台ベッドの上で、ごろごろ転がり続けた。どこまでも転がれそうな広さにイェリナの心も次第に伸びてゆく。



「セドリックはノー眼鏡……でも、わたしには眼鏡が視えるんだから……信じても……いいんじゃないの……? ああ、ここに眼鏡があれば迷わないのに……」



 と、実在する眼鏡について考えたイェリナの思考が、急に現実感を取り戻した。



「……待って。待って、そうよここには眼鏡がない!」



 ガバリと勢いよく起き上がり、顔から色がサッと失われてゆく。



「そんな……そんなの、耐えられないっ! 眼鏡なしで寝るなんて、ダメよ、できない……!」



 寝台ベッドから転がり落ちるように降りたイェリナは、ふわりと柔らかな生地の寝間着ネグリジェのまま、衝動的に客室の外へと飛び出した。



「駄目……駄目……わたしの大事な大事な眼鏡様……っ」



 長い長い廊下を裸足で駆ける。自然と涙が溢れて頬を伝う。毛足の長い絨毯に足音は吸い込まれ、イェリナの嘆きだけが夜の大公邸に響いている。


 この世界で唯一実在する眼鏡。イェリナが魔法と錬金術を駆使して作り上げた一本。

 寮の部屋の鍵のかかる金庫に大切に保管されているイェリナだけの眼鏡。

 魂の拠り所。


 イェリナはそんな眼鏡を、毎夜、寝る前に金庫の中から取り出して気が済むまでで眺め、たっぷりと眼鏡成分を摂取してから眠りに落ちていた。

 その大事な大事な眼鏡は、カーライル大公邸ここには、ない。イェリナの心を安定させる眼鏡がない。



 ——駄目、無理! 一晩だって我慢できない……っ! それに、だって……昨日は誰かがわたしの部屋を荒らしたわ!



 もしも今日、クローゼットの金庫に気づいて大事な大事な眼鏡様を盗まれ壊されでもしたら——?


 長い髪が乱れるままに駆け抜けて、イェリナは混乱するままにカーライル大公邸を抜け出した。













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