第25話 メガネなるものの祝福

 §‡§‡§



 裸足のイェリナを連れて客室へ戻ったセドリックは、イェリナの汚れた足を拭きながら、どうして寮へ戻りたいのか理由を聞いた。



「わたし、眼鏡を摂取しないと生きていけないの」



 という、理解し難い理由を聞かされたとき、セドリックはイェリナの正気を疑った。


 生きていけない、とは大袈裟な。


 けれど、メガネなるものはイェリナにとって生きる支えのようなものなのだろう。

 セドリックの胸の内で、チリリと焦げる気配がした。



「君をそこまで夢中にさせるなんて、そのメガネなるものは、そんなにいいものなの?」

「あの、それは……」

「答えられないようなもの?」

「そうじゃありません。説明して、理解してもらえるかどうか……」



 言いにくそうにイェリナが目を伏せた。けれど時折チラリとセドリックを盗み見る。期待したいような、諦めているような。



 ——今まで誰にも理解されなかったのか。



 話すことを躊躇って、何度もはくはくと口を開閉しているイェリナの仕草に、セドリックは胸の奥がキュウ、と締めつけられるような苦しさを覚える。



「イェリナ、言って。僕に教えて。理解する努力を必ずするから」


「セドリック……。……わかりました、説明してみますね。……眼鏡というのは視力矯正のための道具なんです。魔道具ではなくて、ただの道具。ですが視力矯正機能だけでなく、そのフォルム、デザイン、使用される素材、技術、身につけたときのキャラクター性、ファッション性、すべてにおいてとてもユニークな存在です。レンズに機能を持たせれば、遮光機能や調光機能、美容や変装などにも使えます。もちろん魔法ですべて解決できますよ、視力は直せばいいし、変装したいなら髪色や目の色を変えればいい。けれど、それでもわたし……眼鏡があったから救われたところがあるから……だからこの世界に眼鏡がないなんて割り切れなくて……」



 イェリナは普段、表情豊かに最低限の淑女マナーを守って話す。こんなに一度に早口で言葉を垂れ流すような話し方をしたことはない。


 圧倒的な情報量に気圧されながらも、セドリックが呆れることなかった。表情をくるくると変えながら圧倒的な熱量で好きなものメガネを語る姿は美しい。

 むしろ、イェリナが心を奪われているメガネなるものを少しでも理解しなければ、とさえ思う。



「……イェリナは本当にメガネが好きなんだね」

「あっ……すみません。でもセドリック、それは違います。好きなのではなく、愛しているのです」



 セドリックの目を真っ直ぐ見つめて言い切ったイェリナの顔は、どうしようもなく真剣だった。



「わお、熱烈」



 そんな風に茶化さなければ受け止められないほどの真剣さで、イェリナがセドリックを見ている。



 ——なるほど。僕はまず、メガネなるものに勝たなければイェリナの心を手に入れられない、ということか。



「……そっか。イェリナの情熱はメガネから来ているものなんだね」

「情熱……ですか?」

「うん、そう。ねえ、イェリナ。イェリナはそのメガネって道具のために、僕を利用しているんだよね?」



 セドリックはメガネなるものを識るために、敢えて意地の悪い言い方をした。イェリナを利用しようとしているのはセドリックも同じであるのに棚に上げて。


 心臓の裏側がズキズキと痛みを訴えている。微笑む余裕だって、セドリックにはない。

 イェリナがビクリと肩を跳ねさせて青褪めてゆく。



「ッ! ……ごめんなさい、セドリック。でもわたし……落第するわけにはいかないの、特待生だから。それに第三学年でしか受けられない錬金術実践を取りたいの。憧れの眼鏡素材、合成樹脂プラスチックを精錬するためにも……!」


「……合成樹脂プラスチック?」



 イェリナの口からメガネ以外の聞き慣れない単語が飛び出して、セドリックは思わず聞き返していた。



 ——メガネの次は合成樹脂プラスチック? 凄いな、イェリナの関心は多岐に渡るのか。



 もしかして手強いのはメガネなるものではなく、イェリナ自身なのでは? と眉を顰めてイェリナを見る。

 イェリナはセドリックに聞き返されたことが嬉しかったのか、途端に目を輝かせて話しはじめた。メガネのときよりは劣るものの、それなりの熱量で。



「はい、合成樹脂プラスチックです! ええと……なんて説明すればいいのかな……実際に見たことはないんですけど、ある液体が手に入れば、錬金術で作り出せるはずなんです!」


「液体? 特殊な液体が必要なの?」


「はい! ……この世界でも金剛石ダイアモンドや金が当たり前のように採掘できるんですもの、絶対にどこかにあるはずなんです。液体……液体なのかな? 石油っていうんですけど、えっと……多分、黒くて臭いがあって、燃える水」


「黒くて臭くて燃える……水?」



 イェリナが告げたその水を、セドリックはよく知っていた。

 ドクドクと心臓が激しく高鳴る。口の中がカラカラに干上がって、それなのに手のひらは汗でびっしょりだ。



 ——知っている。ソレが採れる場所を僕は知っている……!



 黒くて臭くて燃える水。呪われた不毛な地セーリング領に、それはある。


 いたるところから湧き出して、けれどなんの役にも立たせることができずに民を困らせている呪いの沼だ。

 この沼のせいで領地の開拓は阻まれ、セーリング領はカーライル大公家の領地の中でもお荷物領として忌避されている。


 セドリックはそんな呪われた不毛の領地を学院アカデミー卒業後に治めることになっている。

 けれど。



 ——もしかしてセーリング領の呪われた沼というのは……!



 セドリックの心がたかぶった。


 けれど慎重に。がっつくような紳士らしからぬ態度を取らぬよう、イェリナの話の続きを待つ。



「石油はですね、地下深く掘っていると運がよければ湧いて出てきます。でも、場所によっては掘らなくても自然に湧くこともあるんです」

「イェリナ、そのセキユっていうのは、合成樹脂プラスチックしか作れないものなの?」


「いいえ、とんでもない! 繊維素材や燃料にもなります。……まあ、燃料は魔法石に敵うものはないので、予備的なものになると思いますけど……他にも舗装用や防水用の素材になったり……使い道は無限大です! あ、そっか……そうか……石油王を見つけて石油を分けて貰えばアクリル樹脂も夢じゃない……プラスチックレンズ……UVカットレンズも作り出すことが……!?」



 イェリナが自分の世界に浸ってしまった一方で、セドリックもまた自分の世界で頭をぐるぐるめぐらせていた。



「……セキユ……そうか、そういうことか」



 ご先祖様がカーライル大公家の血に呪いをかけたのは、この日のためだったのかもしれない。

 確かにこれは、これならば、メガネなるものを識る人間は、イェリナの知識は、カーライル家の呪いを祝福に変えることができる。



「イェリナ」



 セドリックはイェリナの冷えた手をそっと取って握りしめた。



 ——きっとイェリナを混乱させてしまうだろうけど……これだけは、これだけは今、伝えなければ。カーライル家の呪いについてイェリナが知る前に。



 セドリックは覚悟を決めると、イェリナの前に片膝を立ててひざまずいた。



「な、なんですか、セドリック!? ちょ、立ってください!」



 途端に慌てるイェリナをセドリックは無視した。そうしてイェリナの手にくちづけて、思いの丈を真摯に囁いた。



「君は僕の祝福だ。けれどそれとは関係なく、僕は君の心が欲しい」

「えっ。……え?」

「覚悟していて、イェリナ」



 そうは言ったものの、セドリックの恋敵ライバルはイェリナが愛して止まないメガネなるものだ。

 加えて合成樹脂プラスチックなるものも登場し、強力で手強い相手に——それも無機物に——どう立ち向かっていけばいいのかわからない。


 セドリックはわたわたと戸惑うイェリナを可愛いと思いながら、頭の端の方で必死に策を練る。

 そうして。



 ——メガネ……そうか、メガネを……。



 イェリナを見つめるセドリックの目がすぅ、と細まった。自分の呼吸音だけが耳の奥で響いている。



「おやすみ、イェリナ。よい夢を」



 頭の芯が冴え渡る感覚にセドリックは平静を装ってイェリナの部屋を後にした。

 セドリックは駆け出したい衝動を抑えることで精一杯だった。



 §‡§‡§








  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る