3.喪失

第27話 魂に刻まれた眼鏡愛と業

 狂おしいほど眼鏡を愛しているイェリナの魂には、愛と業とが刻まれている。


 その魂を持って転生したイェリナは、魂に刻まれた愛——あるいは業により、家族を除いて他人の顔と名前を覚えられなかった。


 眼鏡があれば、話は別だ。けれど今世には眼鏡が存在しない。



 ——眼鏡……眼鏡さえあれば……。



 他人の顔と名前を覚える基準が眼鏡になってしまったのは、前世までさかのぼる。



「あ! 三件隣のおじいちゃん、こんにちは!」

「お嬢ちゃん、こんにちは。いつも元気だね」

「おじいちゃんも元気でよかった。……あ! 隣のおねえちゃん、そのかみがた、かわいい!」

「こんにちは、いつも褒めてくれてありがとう」

「あれ、向かいのおにいちゃん、かっこいいふくね!」

「嬉しいなぁ。ありがとね」



 前世での幼少期。

 近所の人たちの顔と名前はすぐに覚えられたし、髪型や服装が変わったところで見間違うようなこともなかった。



「隣のクラスのアケサキさん、いつも早く登校して勉強してるの凄いよね。そういえばひとつ上のナカムラ先輩、土曜に公園通りにある塾の前で見かけたよ」

「相変わらず凄まじい記憶力だよね。でもそのおかげでナカムラ先輩の通ってる塾がわかりそうだから助かるわ〜」



 中高生のときは、学年を超えて交流のない他人の顔と名前も覚えていたし、なんなら一度でも名前を聞いて顔を見たら、話したことがなくても忘れることはなかった。


 けれど、歯車が壊れはじめたのは大学へ進学をしてからだ。



「おはよう、今日も一緒だね。よろしく」

「……えっと、……あの、誰ですか?」

「えっ。え? 昨日、隣に座って挨拶した……よね」

「あはは。それだけで友達認定とか、なくないですか。そういうの、ありえないんで」



 大学は広い。中高生の頃とは違って様々な地域から進学しているひとがいる。勝手が違うのは当たり前。覚えられていなくても、仕方のないこと。


 心をわずかに曇らせながら、気を取り直して話しかけ続けた。



「おはようございます、今日もグループワーク、一緒ですね」

「え……誰? いつのグループワークの話?」

「……あっ。……す、すみません……ごめん、なさい……」



 けれど、曇った心は晴れることはなく色濃く濁り、誰かに話しかけてはさらに傷を負うだけだった。


 けれど、世の他人がみんな同じわけじゃない。



「あの……お、おはよう、ございます。今日もよ、よろしくお願いします……」

「あ! 昨日も同じグループでしたよね。よかったぁ、知ってる人が一緒だと、心強いから……」

「僕も昨日は同じでしたよね。今日もよろしくお願いします」



 覚えていてくれたのは、皆、眼鏡をかけたひとばかり。



「……っ! そうですよね、同じでしたよね! ……よかった、本当に。今日もよろしくお願いします」

「そうだ、これが終わったらみんなでご飯食べに行きません? って言っても、学食ですけど」

「ああ、いいですね。そうしましょう。……あ、すみません勝手に決めてしまって。大丈夫ですか?」

「は、はい……! 大丈夫です!」



 唯一なのか、偶然か。

 眼鏡のひとだけは、忘れず優しく接してくれたから。いつでも親切にしてくれたから。親友だって、眼鏡人だった。


 だから前世では、もう、覚えないことにした。


 眼鏡をかけていない他人の名前は記憶せず、眼鏡をかけているひとの顔と名前だけを頭の中へと蓄積する。


 そうしているうちに、眼鏡をかけていないひとの名前は覚えられなくなってしまった。どうせ覚えても、すぐに忘れられてしまう。


 それなのに、どうして覚える必要が……?


 眼鏡を愛したのが先か、他人に愛想が尽きたのが先か。それはもう遠い昔の出来事すぎて覚えていない。


 けれど、歪んだ経験がイェリナの魂をいびつな形にしてしまったことだけは確かなことだった。








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