第28話 どこにもない

「……う、そでしょ……めがね……めがね、さま……どこ?」



 大事な大事な命みたいに大事な眼鏡が盗まれた。


 イェリナは寮の荒れ果てた自室の真ん中で、眼鏡様が鎮座ましましていた金庫の消失跡をただ呆然と眺めている。


 乱雑に開かれ投げられたノートや本、バラバラに散らばったペンや工具は目に入らない。


 イェリナの視線を独占しているのは、空のクローゼット。金庫のあったその空間。


 金庫ごと眼鏡を攫って行ったのは、セドリックの指示を受けた者だった、らしい。絶望に沈むイェリナに囁いた他人ひとの顔はおぼろげだけれど、鮮やかなオレンジ色の髪をしていたことだけは覚えている。


 彼女が囁いた話が本当なのか、嘘なのか。そんなことを考える余裕もない。


 イェリナにわかるのは、宝物である眼鏡が盗まれたこと。もう手元にはないこと。眼鏡を手に取りかざして眺めることも、頬擦りして愛でることもできないこと。それだけだ。


 身体に力が入らない。背中は丸まり、呼吸が苦しい。視界は絶望に染まって黒く霞み、思考は真っ白に塗り潰されて動かない。

 肋骨の内側に鉛が流れ込んだかのように、胸が重い。時間の感覚だってない。

 耳は音を拾わない。外は雨で、雨粒が窓に当たる音しか聞こえない。


 なにもない。イェリナには、もうなにもなかった。


 イェリナは空っぽになってしまったクローゼットを見つめて、もうなにもなくなったはずなのに、時間経過とともに重くなってゆく胸の内を絞り出すようにうめいた。



「ど、して……わたしが、わるいの……?」



 昨夜まで確かにみっちりと詰まって充実いたはずの心は空虚に沈み、唯一触れあえる眼鏡を奪われてしまったせいで涙も出ない。



 ——もしかしたら、幻覚眼鏡にうつつを抜かした罰なの……かな。



 そんな考えがふと浮かび、イェリナは自罰的に心の奥へと閉じこもる。


 なにもかも悪いのは、自分自身。安易にノー眼鏡人に心を許した自分が悪い。

 けれど幻覚とはいえ眼鏡が視える……そんなひと、この世界ではじめて会ったから。



 ——うれしかったの……嬉しかった。眼鏡の話を真剣に聞いてくれるひと、はじめてだったの。



「……ど、して……セド、リック……」



 青褪めたくちびるに乗せた名前はまるで針のよう。イェリナの胸が切なく疼き痛みを訴える。


 セドリックは眼鏡の話を茶化さず興味を持って聞いてくれた。家族ですら取り合ってくれなかった眼鏡の話を、だ。


 そして、眼鏡しか眼中にないイェリナの関心を得ようと心を尽くして優しくしてくれた。

 イェリナがセドリックを利用しようとしていたことも、バレていたのにも関わらず。


 あのときセドリックは、許してくれたのだっけ——?

 いいや、セドリックはなにも言わなかった。言わずにまぁるく微笑んだだけ。



 ——セドリックを利用しようとしたのが……悪女なんて目指そうとしたのが間違いだったのかな……。



 セドリックの柔らかく微笑む笑顔。けれどセドリックは大公子息だ。彼を利用する気満々の御令嬢方に囲まれて過ごしていた貴族子息。

 笑顔の裏に隠された高位貴族的な冷酷さをどうしても想像してしまう。


 裏も表もない他人なんていない。笑顔で明日もよろしくね、と言った口で、翌日には、あなた誰? と怪訝な顔をする。前世で会ったそういう他人との思い出が、頭の中で次から次へと再生される。


 その途端、イェリナの身体がガクガクと震えだした。



 ——眼鏡をかけていない他人ひとは、やっぱり……。



 他人の好意の裏側が。ニコリと微笑んだことを翌日には忘れてしまう薄情さが。覚えていることが気持ち悪いとでも言うかのような視線と顔が。


 そのすべてが怖かった。


 この世でただ一つの眼鏡を失ったイェリナの心は、先祖返りならぬ前世返りを引き起こし、前世の業と怨念とが入り混じってぐちゃぐちゃだ。


 心を許して眼鏡を語ったセドリックに裏切られた。ただそれだけの話だというのに。


 前世のように、すべて忘れてしまってもう二度と関わらなければいいだけの話だというのに。


 今からだって、遅くない。サラティアに頼むなどして星祭りのダンスパートナーを見つければ単位だって死守できる。そのはずなのに。


 どうしても嫌だった。セドリック以外の他人と踊るのは、考えられなかった。まだ一度もセドリックと踊ったことなんてないのに。



 ——わたし、セドリックを失いたくないんだ。



 けれど、眼鏡を奪われなければならなかった理由を探そうとすると、思考が一方通行になってしまったかのように、堂々巡りになってしまう。



 ——田舎の男爵令嬢風情が、大公子息を利用しようとしたのが悪い……。幻覚眼鏡にうつつを抜かしたわたしが悪い……。



 次から次へと言葉が湧いて出るのに、いつまでも同じところをぐるぐる回っている。これはもう、喪失の痛みに浸るための現実逃避だ。


 だから、心の殻に閉じこもったイェリナは自分の背中にひとつの影が落ちたことに気づけなかった。








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