第29話 喪失の痛みに浸る
「イェリナ・バーゼル男爵令嬢、無断欠席とは何事ですか!」
しん……と静まり冷え切ったイェリナの部屋に
時が止まったかのような重苦しい空気がビリビリと震えるのが、俯いたままのイェリナにもわかった。
けれどイェリナは顔を上げなかった。いや、上げることができなかった。
振り返って返事をすることも、喉を震わせてサラティアの名前を呼ぶことも。
自分の意志とはまるで逆。イェリナは思い通りにならない身体の内側で、糸が切れた人形のように項垂れることしかできない。
イェリナの魂の在り方を示す眼鏡が奪われて、身体と心の繋がりが
ガラス窓の向こう側、あるいは他人事のようにイェリナはサラティアの声を聞いた。
「主席特待生の貴女が欠席なん……これは一体、どういうことですの!? 怪我は……怪我はございませんの? 誰がこんな酷いことを……」
——こんな酷いことをしたのはセドリックなんです。彼の指示でわたしの宝物が持ち出されてしまったんです。
答えようと開いた口は開かずに、乾いた舌を湿らすように唾液を飲み込むことしかできない。
けれど、無理矢理呑み込んだ唾は乾いて張りついた喉を潤すことはできなかった。
イェリナにできたのは、床に散らばった精密
——あの
眼球が固定されたかのように微動だにしない視線を不審に思ったのか、サラティアが散らかる床に膝をつく。震えるイェリナに寄り添うように。
「……イェリナ様?」
暖かく可憐な手がイェリナの背中を撫でさする。
——……あっ。
それまで強張っていた筋肉が、引き攣っていた表情が、サラティアの手のひらから染み込む熱によって溶かされてゆく。
いつまでも同じところをぐるぐる回る思考がようやく止まり、イェリナはゆるりと首を振ることができた。口を開いて喉を震わせることも。
イェリナの渇いた口から、堰を切ったように言葉が溢れ出す。
「…………い、いいんです。わ、わたしが……わたしがわるい、から」
けれど顔だけは上げることができないまま。
いつの間にか握りしめていた手のひらに食い込んでいた爪の痛みは、取るに足らない痛みであった。そんな痛みよりも、心に負った傷が深く痛い。
イェリナは力なく首をふるふると振る。
自身に起こった悲劇をすべて受け止めるかのような自罰的な態度は、正義のひとであるサラティアに歯痒い思いを抱かせた。
サラティアの眉根が苛立ちによってきつく寄り、悲しみによって眉尻が垂れてゆく。
「よ、よくない……よくなんてないわ……。……イェリナ様、落ち着ける場所へ行きましょう。ご案内しますわ!」
サラティアはそう告げると、バラバラに散らばったペンや工具、ノートに本をかき集め、ひとまとめに適当な鞄の中へザラザラ放った。そうして鞄とイェリナの腕とを取って立ち上がる。
——サラティア様を
死んで凪いだ心でも、イェリナは反射的に判そう断し、釣られるように立ち上がる。
立つことで高くなった視界に、荒らされて悲惨な部屋の状況がようやく飛び込んできた。
まるで誰かに恨まれているかのような部屋の有り様に、イェリナは僅かばかり首を傾げてしまった。
——セドリックは……ここまで酷いことをしろ、と言うようなひと……だっけ? ……だめ、よくわからない。
回りきらない頭では、所詮セドリックもノー眼鏡人なのだし、と極論を導いてしまうだけ。イェリナは浮かんだ疑問を宙空に漂わせて保留することを選んだ。
「行きましょう、イェリナ様」
と、サラティアに部屋を出るよう促されたのもあるけれど。
凛と響く力強い声に、力をなくしたイェリナの身体に僅かばかり芯が戻る。
イェリナはサラティアに腰を抱かれ手を握られて、小雨が降る中、学生寮を後にした。そうして寮門前に停められたビフロス伯爵家の黒鉄色の馬車へと乗り込んだ。
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