第30話 失ったものは眼鏡だけじゃなかった

「サラ、お嬢さんには会え……え? なに。なに連れて来てんだ!?」



 馬車の中にいたのは、随分とけんの取れたアドレーだった。深緑色の目はまるく、おろおろとイェリナとサラティアを交互に見ている。


 燃えるような赤髪が色褪せて勢いをなくしたように見えるのは、イェリナが意気消沈しているから、という理由だけじゃないようだった。



「待て、待って。お嬢さんの様子を見てくるだけだって言ってただろ!? なんで連れて来てんだよ!」



 焦ったようにサラティアに抗議するアドレー。その姿にサラティアの片眉がピンと跳ねる。



「黙りなさい、アドレー・ローズル侯爵子息。わたくしはもう、黙って言うことを聞くだけの都合のいい伯爵令嬢ではありませんの。……いいからイェリナ様の荷物を持っていただける?」

「わ、わかった……サラが言うなら……」



 サラティアの鋭く細められた視線と声とで、ずぶりと刺されたアドレーは、サラティアから鞄を慌てて受け取った。


 別にたいしたものは入っていないのに、と思いながら、アドレーが慎重かつ丁寧に鞄を抱えて座席に座り直すのを、イェリナはぼんやり見守る。


 その視線をどう捉えたのか。隣に座ったサラティアがイェリナに柔らかく微笑みかけた。



「イェリナ様、ごめんなさいね。この男は荷物持ちだと思って無視してくださって構いませんわ」

「……………………そ、ですね」



 長い沈黙のあとに付け足すようにイェリナが告げる。と、カチコチに固まって正面に座っていたアドレーが、顔を青褪めさせてイェリナに声をかけた。



「お、お嬢……さん? ど、どうした……? なにが……」

「…………ぁ、……………………」



 なにが、と問われて返す言葉が出てこない。そもそも目の前に座るこの赤毛の学生の名前が出てこない。


 眼鏡がなければ他人の顔と名前を一致させることができない業は、いまだ健在だ。今のイェリナは、幻視眼鏡を顕現させようという基本的な眼鏡欲すらない。


 失ったものが多すぎて、話すべき言葉が喉の奥で渋滞している。イェリナは申し訳ないと思いながら顔を伏せた。

 すると、隣に座るサラティアが深く深く息を吐き出した。



「……アドレー、貴方。昨夜わたくしに叩かれて改心なさったのではなくて? どういうことですの、どうしてイェリナ様が……わたくしの大切なお友達が泣くような羽目になっているのです?」

「ご、誤解だ……俺は、俺はサラを……」

「わたくしを言い訳に使わないでいただけません?」

「…………ッ! ……す、すまない! すべて俺が悪い。お嬢さん、本当にすまなかった」



 なにに対して謝られているのか、頭の回転が本調子ではないイェリナにはわからない。

 けれど、アドレーがすべて悪いなんてこと。それだけは信じられなかった。



 ——だって、物理眼鏡があるというのに幻覚眼鏡に浮気したわたしが悪いのだから!



 イェリナは奥歯をぎゅっと噛み締めて、叫び出したい衝動をどうにか抑える。サラティアもアドレーも、イェリナが愛している眼鏡がなんたる物なのか知らないから。


 眼鏡を理解せずかけられる下手な気休めや慰めは、今は少しも欲しくはなかった。



 ——……そういえばこの馬車……どこへ行くのかしら。



 イェリナが乗車した馬車は学院アカデミーの正門前を通り過ぎようとしていた。どこへ向かっているのかはわからないけれど、学院アカデミー前を一度通り過ぎる必要があるらしい。


 すると、窓の外へ視線を向けていたサラティアが急に青褪めた顔で呟いた。



「……あら? あれは……カーライル様? どういうことなの……イザベラ様に寄り添われているなんて……」



 狭い馬車の中では小さな呟きも拾ってしまう。ビフロス伯爵家の馬車も魔法によって振動と騒音とが抑えられているから尚更だ。


 だからイェリナは釣られるように窓を見た。


 サラティアの言うように、セドリックの傍らにはイザベラが。いや、イザベラの傍らにセドリックがいるではないか。


 セドリックがイザベラの細い腰を支えるようにエスコートしている。イェリナはセドリックのあの腕がとんでもなく優しいことを知っている。だから余計に空になったはずの胸に痛みが響く。


 イザベラは満足そうに微笑み、セドリックになにか話しかけている。セドリックは口数少ないものの頷きながら応えているようだった。

 イェリナの傷だらけの指先が、カリ、と窓を引っ掻いた。



「セド、リック……?」



 痺れるような痛みを伴う名前を舌に乗せ、呟いた途端、涙がボロボロこぼれ落ちた。薄茶色の目は大きく見開いたまま、窓の外のセドリックを凝視している。



「え、あ……!? お、お嬢さん!?」

「い、イェリナ様っ!?」



 突然泣き出したイェリナに、アドレーもサラティアもわたわたと慌て出し、ハンカチを差し出したり背中をさすったりしてくれた。


 けれど涙は止まらない。


 嗚咽もなく、身体が震えることもなく、ただポロポロと大粒の涙が音もなく溢れて頬を伝い落ちてゆく。


 ノー眼鏡人であるセドリックを思って泣くなんて、眼鏡様に対する酷い裏切り行為だ。


 そう思っていても、眼鏡様への愛も、眼鏡を愛するイェリナを馬鹿にしなかったセドリックの存在も、流れ落ちる涙でさえ。これ以上、なにも失いたくなかった。


 けれどイェリナの意志を無視して涙が流れ、制服の上にぼたぼたと落ちては吸い込まれてゆく。


 イェリナの視線はセドリックから外れない。セドリックの姿が遠ざかり、馬車が角を曲がるまでずっとずっと外れなかった。


 イザベラの細い腰を支えるセドリックの手が。気遣うようにエスコートする態度が。網膜に焼きついて瞬きの間ですら、ふたりが寄り添う光景が視界の端にチラついて、イェリナの胸をさいなんだ。



 ——本当になにもかも失ってしまったんだわ……。



 と。奪われ失ったものが眼鏡だけではなかったことを唐突に自覚して、イェリナは目の前が真っ暗になってしまった。








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