第43話 お断りしたら、どうなるのですか?

 イザベラ・マルタン侯爵令嬢の婚約者が王太子殿下であることに気づかなければ。

 その王太子殿下が婚約者であるイザベラへ冷たい仕打ちをしているという話を聞いていなければ。


 きっと今頃イェリナはいくらでも無礼な態度を取っていただろう。それだけ眼鏡を質に取った罪は重い。

 けれどイェリナはそうしなかった。



「ご招待いただきありがとう存じます、マルタン侯爵令嬢様」



 客間サロン棟最上階の部屋にひとり通されたイェリナは、美しいとは評せはできないものの及第点のお辞儀カーテシーをイザベラに向けて披露する。

 ぎこちなさや戸惑いはそこにはなく、心は静かで穏やかだ。それがかえって自然なお辞儀カーテシーを演出したのかもしれない。


 挨拶しながらイェリナが真っ先に確認したのはセドリックの姿だ。セドリックはイザベラが座る長椅子ソファの後ろで従者のように立っている。


 予想していた通り、その顔に眼鏡はない。


 幻覚眼鏡はもう見えない。


 ないのに、目が離せない。盗み見ているだけなのに、呼吸がおかしくなって息苦しい。



 ——果たしてこれは、眼鏡(物理)に対する裏切りだろうか。



 そんなことを考えながら、イェリナはセドリックを見つめてしまう自分の視線をどうにか引き剥がす。そうして黒孔雀の尾羽でこしらえたおうぎで優雅に扇ぐイザベラをまっすぐ見据えた。



「生意気な田舎令嬢でも、まともな挨拶ができるのね。最近仲良くしているサラティアにでも教えてもらったのかしら? それともアドレーに? ふふ、あなた、高位貴族をたぶらかすのがお上手ですものね」



 イェリナはイザベラのあからさまな挑発には乗らない。ただ黙って微笑んで、イザベラの出方を見守った。

 それが予想外だったのか。イェリナがあまりにも大人しく涼しい顔をしているものだから、イザベラはムキになって語気を荒げ、横柄な態度を取りはじめた。



「用件はわかっているわよね。あなたにはセドリック様を譲って欲しいの。わかるでしょ?」



 イザベラの高貴なる華奢な手が、後方に立つセドリックへ伸びる。伸びた白い手を迎えるようにセドリックが握りしめ、指を絡める。紫色の視線と黄緑色の視線が合わさり、熱く溶けあってゆく。


 もしもこれが演劇の舞台上であったなら、イェリナはその光景を間に受けて心を激しく揺さぶられただろう。けれど。



 ——あれは、あの目は互いを恋慕うひと達の目じゃない。



 冷静で凪いだ心のイェリナには、それがはっきりとわかった。


 だってイェリナは知っている。


 セドリックの目がどれほど熱くまたたくのかを。あの美しい黄緑色イエローグリーンライトがイェリナを映してとろける様を。


 セドリックに熱く見つめられた日を思い出すと、イェリナの目に涙が滲んだ。物理眼鏡が奪われてから、涙腺が弱くなっていけない。

 滲んだ涙を指で拭うイェリナを見てイザベラがどう思ったのか。黒孔雀のおうぎをパチリと閉じたイザベラが、高圧的な笑みを浮かべてイェリナに迫った。



「今日の夕刻の鐘が鳴るまでに舞踏会ダンスパーティの参加申請を出さないと星祭りに参加できないのは知っているでしょう? だから早く頷きなさい。セドリック様をこのあたくしに譲る、と」



 イザベラの要求は予想していたものとほぼ同じだった。

 イェリナの眼鏡を持ち出して脅せば話は早いのに、真っ向から要求を突きつけてくるのは、高位貴族としての尊厳プライドがあるからだろうか。


 それとも、高位貴族の名を振りかざして威圧すれば、誰もがひれ伏すと思っている傲慢さゆえか。



 ——多分、そのどちらでもないんだわ。



 イェリナはイザベラの真意がどこにあるのか探るように、慎重深く観察する。焦っているのか、それとも無理を通そうとする自身に心を痛めているのか。紫色の目がイザベラの迷いをあらわすかのように揺れていた。



「いいから諦めて、あたくしに譲りなさい!」



 セドリックと出会ってから、イェリナはずっと誰も彼もに「諦めろ」と言われ続けていた。



 ——諦めろと言わなかったのは、セドリックだけね。



 イェリナ自身でさえ、諦めかけたのに。


 深く深く息を吐く。そうして腰を立てて背筋を伸ばす。お腹に力を入れて、顎を引く。最後の仕上げにまっすぐ前を向いた。

 イェリナは、今ここにはいないサラティアの振る舞いを真似てイザベラに立ち向かう。



「失礼ですが、セドリックは譲渡できるような物ではないと思うのですが」

「あなた、誰を相手に口を聞いていると思っているの? あたくしはイザベラ・マルタン。この国に五家門しか存在しない高貴なる侯爵家の娘よ!」



 大声を出さずとも威厳に満ちた鋭い物言いは、お腹に力を入れて備えていたイェリナでさえ、喉の奥で悲鳴を上げそうなほど。


 この国の貴族は建国以来、一大公、三公爵、五侯爵、七伯爵と決まっている。国境を守る辺境伯と、功績を上げれば平民からの叙爵もあり得る子爵、男爵は、その限りではない。

 選ばれしものであるという自覚がイザベラの言葉を鋭く強いものにする。



「黙ってあたくしの言うことを聞きなさい、田舎男爵令嬢風情が」

「世界はマルタン侯爵令嬢様を中心に回っているわけではないのでは?」


「本ッ当に生意気ね。あなたは単位が取れればいいんでしょ? あたくしのパートナーを譲って差し上げるから、お譲りなさい」



 ——いやいやいやいや、あなたの婚約者、王太子殿下ですよね!? 代理人とはいえ、パートナーを変わるのはマズいのでは!?



 無遠慮に突っ込みそうになったイェリナは、グッと我慢した。お腹に力を込めて、言葉を呑む。

 リリィと話した感じからして、イザベラが王太子殿下と婚約していることは、おおやけにはされていないようだったから。


 黙ったイェリナが逡巡していると思ったのだろうか。イザベラがダメ押しするかのように甘い誘いの言葉を紡いでゆく。



「別にね、あたくしは婚約者となど踊らなくてもいいの。第三学年であるあたくしは、星祭りのダンスパーティーなど必修単位ではないのだし。意地を張って困るのはあなただけ。あなた、星祭りの単位が欲しいのでしょう?」



 この客間サロンで迎えられたときとは打って変わって、柔らかく慈悲深いイザベラの声音。イェリナを見つめる視線だって、いつの間にやら優しい色が滲んでいる。


 これが高位貴族のやり方か。あるいはイザベラが持ち得る交渉術か。

 もしもこれが今日ではなく、昨日だったら。

 あるいは、眼鏡を奪われた直後だったら。

 混乱して取り乱し、まともな思考力もなかったイェリナは素直に頷いていただろう。なんて慈悲深き女神様だろう、とひざまずいていたかもしれない。


 けれど。

 けれどイェリナは、もう決めていた。


 リリィに連れられて階下の客間サロンを出たときに。いや、百合と盾の襟止めブローチをつけたリリィがイェリナを訪ねてきたときに。

 いや、それよりももっと前から。



「……お断りしたら、どうなるのですか?」



 どうなるのか、なんて、もうわかっている。わかりきっている。だからイェリナは、あえて口にした。


 心臓がとてつもなく早い。未来を予測してもろくなった涙腺から、涙がじわりと滲み出る。

 けれど瞬きひとつせずに、イェリナはイザベラの言葉を待った。問われたイザベラが、ふ、と勝ち誇ったように笑う。



「あなた、コレがどうなってもよろしいの?」

 イザベラが制服のポケットから、布に包まれた小物をひとつ取り出した。







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