第44話 どうか心の赴くままに

 ——あっ。あれはわたしの眼鏡さま……っ!



 あの布には見覚えしかない。毎夜毎晩、手に取っていたのだから見間違えるはずがない。少しくたびれて柔らかくなった布に包まれているのは、イェリナの眼鏡だ。



「あなたの大事なものなのでしょう?」



 イザベラは艶やかな唇でニンマリと弧を描いた。そうしてイェリナの眼鏡を力任せにギリギリと強く握りしめたではないか。



「……っ、わたしの眼鏡さまッ!」



 イェリナは条件反射で悲鳴を上げた。

 イザベラに聞き返した時点でこうなることは、わかりきっていたのにも関わらず。覚悟をしていても、やっぱり目の前で眼鏡が虐げられている様を見るのは、心身によくない。



 ——ごめんなさい……ごめんなさい、眼鏡さま!



 イェリナは指先の震えを沈めるように手を組んだ。祈りの形を取った手で、イェリナは自身の行いを眼鏡の神様に密かに懺悔する。


 涙が滲んで歪んだ視線が、物言わぬセドリックが悔しそうに奥歯を噛み締めている姿をふと捉えた。

 眼鏡様への暴力をイェリナと共に悲しみ悔やんでくれるだなんて。なんて、素敵なひとだろう。



 ——わたしがしっかり、しなくちゃ。しっかりしなきゃ、取り戻せない。



 イェリナは深く長く息を吐き出した。込み上げる涙の気配も、呼気とともに流れてゆく。

 おかげでイェリナは気が紛れ、冷静さを取り戻すことができた気がする。



「ほら、観念なさい。コレを無傷で返して欲しいなら、今ここで申請書にサインをするのよ。あたくしとセドリック様のパートナー申請の推薦人という名誉を差し上げるわ!」



 まるで高笑いでもしそうなイザベラに、イェリナも奥歯を噛んで耐え忍ぶ。

 イェリナが耐えるのは、イザベラに対する切り札があるからだ。



 ——まだ。まだよ。切り札カードを切るのはここじゃない。



 イェリナは愛しの眼鏡様が置かれている最悪な状況に耐えながら、キリリと眉を吊り上げてイザベラを見据える。

 イェリナが浮かべる表情の意味を勘違いをしたままのイザベラが、ついにふふふ、と笑い出した。


 一度は閉じた扇を開き、バサバサと音が鳴るほどに黒孔雀のおうぎで扇ぐその頬は、興奮か、それとも愉悦だろうか。べにを乗せたように赤い。



「ほら、セドリック様もなにかおっしゃって? ……ふふ、喋ることができれば、の話ですけれど」



 イェリナはハッとして、イザベラに話を振られたセドリックの姿を見た。セドリックの顔色は酷く悪い。青白くほっそりした頬、青黒くくすんだ目元。

 けれどセドリックはイェリナの視線に気がつくと、静かにそっと微笑んでみせた。そうして震える手で制服の胸元を探ると、淡い光がほんのりと漏れ出した。



「……セドリック様、なにをなさって——……?」



 いぶかしむイザベラには応えず、セドリックはただまっすぐにイェリナを見つめた。


 熱でとろけた黄緑色イエローグリーンライトで。瞬く瞬間さえ惜しいと伝わる切実さで。青白い顔も、落ち窪んだ目元も、息を吹き返したように色と熱とを取り戻してゆく。

 まさに薔薇色の微笑み。高貴なる大公子息の心からの笑みだ。


 それを見て、イェリナの息が一瞬止まった。

 胸骨の内側で鼓動する心臓の音が、どうしてか激しい。


 あって欲しいもの眼鏡はそこにはないのに、イェリナの心の目には美しい眼鏡が視えているような不思議で浮かれた気分だ。

 セドリックはイェリナだけが知っているまあるく柔らかい微笑みを浮かべて、真摯に告げた。



「イェリナ。どうか君の心の赴くままに」



 その言葉をイェリナに贈った途端、淡く輝いていたセドリックの胸元から光が消えた。光の消失と共に、セドリックの顔色が悪くなる。色を失い、熱も遠ざかり、まっすぐに向けられた視線がれる。


 ほんのひと言だけの奇跡のようだった。


 けれどイェリナにはそれだけで充分だった。セドリックの言葉がなにを意味しているのか。イェリナにはわかってしまったから。



 ——セドリックは、わたしが眼鏡さまを選んでもいいと言ってくれている……!



 イェリナは深く深く息を吐いた。鼻の奥で感じている涙の出番は、今じゃない。

 目蓋を一度閉じてから、呼吸を二回。そうしてイェリナは目を開けた。イザベラを射抜くように凛々しく、強く。



「イザベラ・マルタン侯爵令嬢様。セドリックもそう言ってくれていますので」

「……! じゃあ、サインするのね!?」



 喜色に満ちた目を輝かせたイザベラが、思わず、といったように立ち上がる。それを見ながらイェリナはゆっくりと首を振った。縦ではない、横へと。



「いいえ、まさか。サインはいたしません。絶対に、しない!」



 薄茶色の目がイザベラをつように鋭く光った。イェリナは震える指先を隠すように握り込む。


 どうしてだ、イェリナ! というセドリックの叫びが聞こえるよう。信じられないものを見るような目で、セドリックとイザベラがイェリナを見ている。



 ——いいの、大丈夫。



 イェリナは心の中でセドリックに言った。大丈夫、大丈夫だと自分に言い聞かせ、何度も胸中で呟く。


 その間に、文字通りイザベラの手中にある眼鏡がミシリと悲鳴を上げるのを聞いた。イェリナは衝動的にイザベラへ飛びかかりそうになる激情を必死で抑える。

 気を緩めれば頬を伝うことになるだろう涙を鼻の奥へと引っ込めて、イェリナは気丈に微笑んだ。


 そうしてイェリナはアドレーのやり方を参考にして、傲慢にもイザベラを怒鳴りつけたのだ。



「ひとの大切なものを質に取って、なにが高位貴族令嬢ですか。もう少し賢く立ち回ってからおっしゃってください!」



 以前、イザベラに言われた言葉をそのまま返す。

 他人が大切にしている宝物を奪って脅すのは、気高き貴族が行うことじゃない。いくら学生であるからとはいえ、稚拙すぎる。やり方が幼すぎて、イェリナはなんのダメージも貰わなかった。


 イェリナに賢さを求めながらも矛盾した行動をとるイザベラ。

 イザベラの矛盾は、それだけじゃない。イェリナは怯むイザベラに「それに……」と付け足して、ある指摘を鋭く投げた。



「どうして高位貴族の証である徽章を、どこにもつけていないんですか?」







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