4.呪いと祝福

第41話 なにもないから怖くない

 もしかしたら自分は、とっくの昔に正気を失っていたのかもしれない。


 イェリナは、居丈高な態度で微笑むリリィ・ティーガル伯爵令嬢と、そんな令嬢から守るように前へ出たサラティアのピンと伸びた背筋を黙って見つめながら、そう思う。


 イェリナの心中はいつからか凪いでいて、ときどき波風が立つものの、多くの時間を静穏に過ごしていた。

 心がざわついたのは、サラティアに問われて眼鏡を語ったときと、セドリックを思うとき。回数だけで言えば、後者の方が断然多い。



 ——やっぱりわたし、気づいていなかっただけで発狂していたんだわ。



 そうでなければ眼鏡への情熱が、愛情が、執着が、静かに沈んで浮いてこないなんて、起きるはずがないからだ。


 イェリナは身体をふるりと振るわせた。寒気ではなく、これから起こるであろう最悪の事態にだ。

 イザベラはイェリナを呼び出して、セドリックを諦めろ、と言ってくるに違いない。きっと、奪った眼鏡を質に取って。


 先週までのイェリナなら、迷わず眼鏡を選ぶだろう。物理眼鏡を愛でることができない日々なんて考えられない、と言って。

 けれど。けれど、今は……。



 ——自分がこわい。セドリックの顔には、もう、幻覚眼鏡が視えないのに。



 イェリナは真っ青であろう自分の顔を両手で覆ってしまいたかった。

 でもそれはできない。イェリナの前にはサラティアが。サラティアの前にはリリィが貴族令嬢らしく背筋を伸ばして立っているからだ。


 睨み合って対峙しているというのに、彼女たちの姿や表情はとても優雅で柔らかく、ともすれば談笑などはじめそうである。

 これが高位貴族の淑女レディというものか、とイェリナの背筋がゾクリと震える。

 リリィとサラティア。先に動いたのはサラティアだった。



「イザベラ様がイェリナ様をお呼びなのですね、ティーガル伯爵令嬢様。……わかりました。イェリナ様、行きましょう」



 現実逃避をするかのように思考の海に潜水ダイブして、ようやく息継ぎのために浮上したイェリナを助けるように、サラティアがさらに一歩前へ出た。

 にこりと微笑んだサラティアの目は、冬の湖のように凍てついて鋭い。


 サラティアは彼女を引き止めようとするアドレーの腕を振り払い、イェリナとリリィの間に立つ。

 受けて立つとでも言うように、リリィがくすりと鼻で笑う。



「いけませんわ、サラティア様。イザベラ様は、バーゼル男爵令嬢様おひとりでいらっしゃることをご希望ですの」



 ころころと転がり煽るようなリリィの声に、顔を青褪めさせたのはイェリナ当人ではなくサラティアだ。



「そんな……」

「サラティア……。……リリィ、俺が付き添うのでも駄目なのか?」

「イザベラ様は、裏切り者などもう話す価値がない、ともおっしゃられておりましたわ」

「……クソっ。すまない、お嬢さん……なにからなにまで俺の失態なのに」



 マルタン侯爵家と同爵位であるローズル侯爵家子息アドレーの申し出は、伝言役メッセンジャーであるリリィによって、あっさり却下されてしまった。


 アドレーがそのまま素直に従う様を見て、イェリナは高位貴族同士の力関係に触れたような気がしてゾッとする。こんな寒気、一生感じることはない、と思っていたのに。


 確かに、イェリナが記憶した貴族名鑑には各家門の微妙な力関係が注釈で記載されていた。

 五つある侯爵家のうち、カーライル大公家から派生してカーライル家を守護する武家門であるローズル侯爵家と、主に金融取引を担うマルタン公爵家では後者の方が序列が高い。



 ——マルタン公爵令嬢様は、わたしと話がしたいんだ。



 そう感じたイェリナは、腹を括った。向こうがそう来るのなら、受けて立つのみ。



 ——わたしにはもう、なにもない。なにもないから、怖くなんてない。



 イェリナは階級の壁に縛られて動けなくなってしまったサラティアの肩に、そっと手を置く。守ってくれてありがとう、と感謝の意を込めて。



「サラティア様、アドレー様、お気遣いありがとうございます。でもわたし、付き添いが必要な子供ではありませんから大丈夫ですよ」

 イェリナは、それに……、と付け足してひと呼吸置いた。



「これは、わたしの問題です」

「なんの後ろ盾もない田舎令嬢にしては、懸命な判断ですわ。……では、参りましょう」



 こうしてイェリナは、背後で狼狽えながら「駄目よ、イェリナ様!」と呼ぶサラティアの悲痛な声を聴きながら、イザベラの使者であるリリィ・ティーガル伯爵令嬢の後に続いて客間サロンを出たのだった。






 客間サロン棟最上階へ伸びる階段を、イェリナは少し懐かしさを感じながらリリィの背に続いて登ってゆく。

 相変わらずイェリナの心は凪いでいた。頭だけが冷静で、心はどこかに取り残されているかのよう。



 ——わたしの心、どこに置いてきたのかな。



 イェリナは前をゆくリリィのピンと張った肩をぼんやり見つめながら、階段を登る。

 硬い踵ヒールが石造りの階段をカツカツと叩く音に乱れはなく、息の乱れもない。田舎暮らしで男爵領にいた頃は農業の手伝いだってしたことのあるイェリナでさえ、少し息が切れているというのに。



 ——百合と盾の襟止めブローチ……。百合と盾、そしてティーガル伯爵家の御令嬢。



 イェリナはいつの間にか、先をゆくリリィの家門について考えていた。

 ティーガル伯爵家。交差する二本の剣と盾が意匠された紋章であらわされるこの家は多くの騎士を輩出している家系である。

 その中でも百合と盾の意匠を与えられた令嬢は特別だ。

 まるまると記憶した貴族名鑑の情報データがイェリナの頭の中をぐるぐる走り出す。

 イェリナは汗でじっとり湿った手のひらを握りしめ、渇いて貼りついた舌を動かし、喉を震わせた。



「あの……ティーガル伯爵令嬢様は、マルタン侯爵令嬢様の護衛なのですか?」



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