第40話 わたしは何を諦めたくないの?
「聞いてください、セドリックの顔から眼鏡が消えてなくなっていたんです!」
その日の放課後。
最終授業が終わった途端、サラティアに連れられて
閉ざされた密室内には、眼鏡を知るひとしかいない。それも、眼鏡に否定的ではなく肯定的なひとばかり。だから、幻覚眼鏡も物理眼鏡も足りていない限界状態のイェリナの
十七年間大っぴらに眼鏡を語ることを無自覚に抑制していたイェリナである。
金庫の解錠や眼鏡様の所在が判明したことで、それまで張り詰めていた緊張の糸がぷつり、と切れた。だから、抑圧された眼鏡語り愛が爆発してしまうのも無理はない。
すでに
「あー……お嬢さん? 自分がなにを言っているのかわかっているのかな?」
「眼鏡……眼鏡です。眼鏡ですよ? 今朝のセドリックの顔から、眼鏡がなくなっていたんです! 事件も事件、大事件です!」
「……イェリナ様、それは……大事件、なのですか?」
キョトンとした顔でサラティアが小首を傾げる。その様子にイェリナは信じられないものを見るような形相で詰め寄った。
「なにをおっしゃっているの、サラティア様ッ! あんッなにも完璧な形でセドリックの顔に顕現しておられた眼鏡様がッ! 視えなくなっていたんですよ!? 事件以外のなにものでもありません!」
「え、えぇ……?」
興奮しきって頬が赤く上気しているイェリナに、至近距離で熱く語られた内容に戸惑うサラティア。アドレーが二人の間に割って入り、適度な距離に引き離す。
「……お嬢さん、サラ。ちょっといいかな」
サラティアを庇うような、あるいはイェリナの眼鏡熱から遠ざけるように彼女を背に隠すアドレーに、イェリナは考えるまでもなくその名前をくちびるに乗せた。
「なんでしょう、アドレー様」
今まで幻視眼鏡を呼び起こさなければ出てこなかった名前が、今はすらりと突いて出た。
それだけじゃない。奇妙なことにイェリナはアドレーの眼鏡顔には少しもときめかなかった。
「……あら? アドレー様の
イェリナが冷静に疑問を口にする。
「いやいやいやいや、俺の顔にも視えてんの!? じゃなくって……お嬢さん。俺やセドリックがメガネを装着していた前提で話しているがね、俺もセドリックもメガネなるものを身につけたことはないし、見たことも手にしたこともないからね!?」
「あっ……!」
「い、イェリナ様、アドレー……どういうことですの?」
イェリナは困惑するサラティアに幻覚眼鏡とセドリックのことをすべて話した。
気合いを入れればアドレーの顔にも幻視眼鏡を視ることができることも。念じなければ視えなかったアドレーの幻視眼鏡が、今は名を呼べば苦もなくあらわれたことも。
——そういえば、アドレー様のお顔の眼鏡……今日は名前を呼ぶだけで簡単に視れてしまったけれど……もしかして、ときめきと引き換えにわたしの幻視技術が
イェリナはひとり、ゴクリと喉を鳴らす。そして、イェリナと同じように喉を鳴らし、なにかを悟った乙女がひとり。
「わかりました。つまり、イェリナ様とカーライル様は運命、ということですわね!?」
「運命だなんてことあるわけないじゃないですか」
イェリナはサラティアの乙女発言を即座に否定した。それだけにとどまらず、乙女も夢もないイェリナの発言に驚愕するサラティアに、追い打ちをかけるような言葉を追加する。
「ところでサラティア様、星祭りのわたしのダンスパートナーなのですが、どなたかご紹介いただくことはできますか?」
イェリナは努めて明るく言ったつもりだった。喉は余計に震えることなく、声だって上擦っていない。なんでもないことのようにサラリと告げた。そのはずだった。
「イェリナ様っ!? なんてことを……!」
「お嬢さん。ダンスの相手はセドリックしかいない、あいつしか考えられないんじゃなかったのか?」
顔を青褪めさせて慌てだしたのはサラティアとアドレーだった。当事者であるイェリナよりも取り乱し、唖然としている。
「あ、諦めるのか?」
追い
——アドレー様、はじめは諦めろっておっしゃっていたのに。
きっと、もうアドレーはイェリナの味方だ。そういう確信がある。それでもイェリナは肯首した。
星祭りまであと二日。
セドリックはイザベラのもとにいて、イェリナとは目を合わせてもくれない。結局、イェリナの眼鏡を奪うように言ったのはセドリックなのか、イザベラなのか。それすらわからない。
わかっているのは、このままでは星祭りの必須単位を落としてしまうということだけ。眼鏡のために
けれど、必須単位を取るダンスパートナーは、別にセドリックである必要はないのだ。
「……わたしは将来作られるであろうすべての眼鏡のために、今ここで単位を落とすわけにはいかないのです」
今朝、サラティアと話している中で、眼鏡の設計図を描き起こせれば量産型眼鏡の製造も夢ではないと知ってしまった。
そのためには、眼鏡に適した合金の錬金を研究したほうがいいに決まっている。であるならば、イェリナは錬金術応用の授業を受けるために、絶対に第三学年に進学しなければならない。
——ほら、合理的でしょ。理にかなっているわ。ここでセドリックに拘って単位を落とすのは……得策じゃない。
そう思うのに、イェリナの心は「でも」を繰り返している。
——でも、セドリックは金庫の暗号を解いたのよ。わたしの話をしっかり聞いてくれた証拠だわ。でも、セドリックはマルタン侯爵令嬢に寄り添っているわ。わたしの目も見てくれない。でも、セドリックは顔色が悪かったわ。侯爵令嬢になにかされたのかもしれない。でも……。
繰り返される「でも」の嵐でイェリナの頭はいっぱいだ。視界は暗く落ち込んで、耳だって音を拾わない。
ギリリと奥歯を噛み締める音だけが響く中、イェリナの耳は、
「だからってセドリックを諦めるのか? あいつは少しも諦めてないぞ!」
と叫ぶアドレーの声を奇跡的に拾い上げた。
途端、イェリナの胸の内がカッと燃え上がる。火薬に火がついたように、あるいは爆発したかのように感情が溢れ出た。
「わたしだって諦めたくない! でも、でも……わたしの眼鏡様はマルタン侯爵令嬢様の手の内なんですよ!? この世唯一の眼鏡が壊されでもしたら……! こわ、されでも、したら……?」
ワナワナと震える指と膝。込み上げる感情が呼吸に追いつかない。恐ろしいことを想像してしまい、どうしようもなく胸が苦しい。
イェリナは頑なに首を振った。ふるふると横へ。奥歯を噛み締めながら、絞り出すように思いの丈を吐き出してゆく。
「わたしが賢く立ち回らないと……今日中に申請しないと参加もできない。単位を取れない。……もとより、わたしは単位狙いだったんです。セドリックは……セドリックのことは……」
けれど、どうしても。
セドリックのことなど、どうにも思っていない、とだけは。もう諦めるのだ、とは言えなかった。
噛み締める奥歯が痛い。鼻の奥がツンとする。無意識に握りしめた拳に爪が食い込んでいた。
静まり返る部屋に、イェリナの荒い呼吸の音だけが響いている。
「お嬢さん……」
躊躇いがちにアドレーが呼びかけた。けれど一度、言葉を区切って目を
そうしてアドレーは身体中の息を吐き出すように深く深く呼気を吐き、姿勢を正してイェリナに向かい合う。
アドレーがなにか言おうと口を開きかけた、そのときだった。四回打ち鳴らされたノックの音によってイェリナへの言葉は虚しくも打ち消されてしまった。
「……誰だ、客など予定はないぞ」
アドレーが扉を睨む。すると、この
「失礼いたします、イェリナ・バーゼル男爵令嬢はこちらでよろしくて?」
扉の向こうからあらわれたのは、オレンジ色の髪を肩に垂らした勝気な顔の令嬢だった。以前は髪に隠れて見えなかった
——あの方は……イザベラ様の後ろに控えていたリリィ様。リリィという名の方は
「リリィ・ティーガル伯爵令嬢、どのようなご用件ですか?」
イェリナは毅然とした態度で無礼にも部屋に入ってきた令嬢の名前を呼んだ。サラティアを手本にして背筋を伸ばし、凛と響くように努める。
リリィ・ティーガル伯爵令嬢は対応に出たイェリナに視線を送ることはなかった。イェリナだけでなく、部屋の中にいる誰をも見ていなかった。
まるで、取り合う価値のない人々だ、とでも言うかのように。あるいは、取り合う必要はない、と教え込まれたかのように。
リリィは作り物だとはっきりわかる微笑みを浮かべると、唖然としたまま眺めるイェリナたちにこう告げた。
「イザベラ・マルタン侯爵令嬢様の命により参上いたしました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます