第45話 これより反撃を開始する!

「は? あたくしが我が家門の徽章をつけていないことに、なんの関係がありまして?」



 問われたイザベラの額から、ひと筋汗が流れ落ち、つつつと頬を伝うのをイェリナは見た。それと同時に、イザベラの貴族令嬢としての微笑みの仮面が剥がれ落ちつつあるのを感じる。


 この学院アカデミーで、家門をあらわす紋章や徽章の類いをつけていないのは、伯爵位未満の下位貴族たちだけ。


 自由と平等を謳う学院アカデミーであっても、高位貴族たちの自己顕示欲は凄まじい。

 そんな高位貴族の代表格ともいえるイザベラは、制服のどこにも家門をあらわす紋章や徽章、襟止めブローチをひとつも身につけていなかった。


 学院アカデミーで一番高貴で優しいとされるセドリックでさえ、家門を示す徽章をつけているのに。



 ——最初に気づくべきだった。セドリックの幻覚眼鏡に夢中で気にも留めなかったわたしが悪い。



「マルタン侯爵令嬢様。あなたが一番、この学院アカデミーの方針を支持しておられるのではないですか? 徽章を付けていないのは、爵位に関係なく平等にあろうとしたからではないの?」


「……あ、あなたの……か、勘違いではなくて? あたくしはあなたやサラティアの悪い噂を流したのよ」



 返すイザベラの目が泳ぐ。罪悪感でにじむ目、尻すぼみに消えゆく声。高位貴族然としたイザベラの姿は、もうどこにもない。ここにいるのは年相応の少女だ。



「噂がなんだというのですか。別に家業に害があったわけでもなし」



 イェリナは大袈裟にため息を吐いて肩をすくめた。

 確かに噂は流された。けれど、家業や領地の収入に関わるような政治的な噂はひとつもなかったし、もとより友人知人がいなかったイェリナは、なんのダメージも受けなかった。

 かえってサラティアと友人になれてしまって幸運だったとさえ思っている。



「マルタン侯爵令嬢様。あなたを支持する学生を集めてみんなの前でわたしをおとしめることもできたのに……どうして呼び出して話すことを選んだの? どうして今、わたしの無礼を許しているの?」



 畳み掛けるようなイェリナの言葉にイザベラはとうとう言葉を失った。はくはくと声なく動く薄紅色の唇が、イェリナに反論することはない。

 放心しかけているイザベラの後ろで、セドリックもまた驚きによって目を瞬かせている。



「噂以外でわたしの生命いのちに関わる嫌がらせは、眼鏡様を持ち出されたことくらいですね。まあ、それが致命的だったのですけれど。自分でもビックリするくらいよく効きました。今だって、こう見えて怒っているんですよ、イザベラ様。あっ、イザベラ様とお呼びしても?」



 イェリナはカラリと笑って申し出た。きっと今のイザベラはこの気安い名呼びを許すだろう。イェリナには確信があった。



「……構わないわ」



 イザベラはしばらく迷いをみせたものの、結局は予想通りに許された。高位貴族令嬢を前にして無礼を重ねすぎているイェリナは、内心ホッとした。



 ——流れは確実にこちらに来ている。大丈夫、大丈夫よ……わたしはやれるわ。



 誰にも悟られないように深呼吸をひとつ。息を吐き出して、それから吸う。



 ——さあ、反撃開始よ。



 イェリナはにこやかな笑顔の盾を顔に貼りつけた。今世の母の教えだ。貴族令嬢たるもの、いつ、いかなるときでも笑顔を絶やしてはならない、と。

 そうしてイェリナは微笑みを浮かべながら、緩みがちな背筋をピンと伸ばして一歩前へ出る。



「ありがとうございます。あっ、もうひとつよろしいですか? イザベラ様、本当は婚約者の方にひと言、物申したいだけなのでは?」



 途端に客間サロンの空気がひりついた。単刀直入に斬り込んだイェリナの問いが、イザベラの美しく整った顔を蒼白にさせている。

 図星を突かれて声を失くしたイザベラを見て、イェリナは冷静に冷徹な声で続けた。



「セドリックはその踏み台でしかない。イザベラ様が欲しいのは、セドリックではなく、その権威でしょう?」

「どう、して……わかった、の……」


「少し考えればわかります。わたしだって、セドリックを利用しようとしたのだから。それに、イザベラ様の立場とご婚約者様が誰なのかに気づくことができれば、答えは簡単です。逆にどうして今まで、誰も気づかなかったの?」



 イェリナの無遠慮とも取れる言葉に、イザベラの顔が歪む。何度もイェリナの言葉に揺さぶられた紫色の瞳が涙色で滲みつつあるのが見えた。


 震えるイザベラの手の中で、布に包まれたイェリナ眼鏡がカタリと鳴った。


 イェリナ自作の眼鏡には、握られたくらいで音が鳴るような部品パーツはない。レンズの枠である玉型リム鼻当てノーズパッドを繋ぐクリングスは、難易度が高くて付けることができなかったから。



 ——ごめんなさい、眼鏡さま。でも、わたしは……わたしはできなかったことを、今、します。



 イェリナは心の中で祈ってから、さらに一歩、前へ出た。



 ——あの日、わたしはきっと、知らないうちにイザベラ様を追い詰めたんだわ。



 あの日——イェリナが悪女らしく振る舞ったせいで、イザベラの気持ちをなだめることができなかった日。あの日のことを思って、イェリナはイザベラに向かって手を差し伸べた。



「ですから、こうしましょう。イザベラ様、ご婚約者の方に抗議するんです」

「そんな……そんなこと! できっこないわ!」



 当惑したようにイザベラが叫ぶ声がする。できない、無理よ、と、美しく整えられた白金色の髪が乱れることも厭わずイザベラが首を振る。

 婚約者に抗議して状況を改善する、というイェリナの真っ当な提案は、どうやらイザベラには受け入れられなかったらしい。

 けれどイェリナには、それが子供が駄々をこねているだけのように思えた。



「できますよ。イザベラ様、セドリックや皆様を巻き込んでまで、ご婚約者様の関心を得ようとしたのでしょう?」



 自信満々の笑みを浮かべて、更に大きく一歩、イザベラとの距離を詰める。

 ここまでジリジリと距離を詰めて、あと、三歩。

 三歩の距離で手が届く。イェリナは手負いの獣のように取り乱したイザベラから、決して目を背けなかった。



「ご婚約者様をお慕いしておられるのでは?」

「か、賢く振る舞っても愛してもらえない! 高貴を体現しても無関心! 婚約破棄を狙って傲慢に振る舞ってみてもお咎めはない! いつだって蔑ろにされているのに、今更、なにを言えっていうの!」



 ついにイザベラが金切り声を上げた。心の底から力の限り絞り出したであろうイザベラの言葉には、客間サロンの空気をビリビリと振るわせるほどの力があった。

 だから。


 ——パキ。


 勢い余った強者の力が弱者を呑み込み被害をもたらしてしまうのは、この世のことわりか。


 イザベラの手中にあった脆弱な眼鏡が、その叫び声と共に呆気なくへし折られたのである。







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