第46話 それでも心は折れない

「マルタン令嬢ッ、なんてことを!」



 眼鏡への暴挙に誰よりも先に反応したのは、セドリックだった。


 けれど、そう叫んだセドリックは次の瞬間、自由に身動きが取れている自身に驚いたように目を丸くして、身体のあちこちを確認する。

 折れた眼鏡とセドリックから淡い緑色の光が立ち昇っている。いや、立ち昇るのではなく、抜け出ていると言った方が正しい様だった。



 ——やっぱりセドリックは、イザベラ様の誓約魔法の影響下にあったのね。



 金融取引を扱うマルタン侯爵家は誓約魔法を自在に使う。普通の誓約魔法よりも強固なそれは、誓約時の条件を満たし続けているのなら半永久的に誓約魔法の影響を受ける呪いに近い魔法である。

 けれど、その条件が成立しない状況になれば?

 当然、魔法は解けて自由の身となる。



「イェリナ、イェリナ……」



 セドリックがイェリナの名前とその存在を確かめるように呟いた。今まで一度だって聞いたことのない震えた声が、イェリナの膝を震わせる。


 緑色の淡い魔法の光がセドリックの身体から抜け切ると、彼はすぐにイェリナの元へと駆け寄った。三歩の距離をあっという間に詰めきって、セドリックがイェリナを抱きしめる。



「セドリック……おかえりなさい」

「イェリナ、君の大事なメガネが……僕はなにもできなかった……」



 イェリナの薄茶色の目は渇いてなにもこぼれていないのに、セドリックの美しい黄緑色の目がウルウルと潤んでいる。



「いいの、大丈夫」



 そう告げて、イェリナはセドリックの背を抱き返した。

 今度はちゃんと口にして伝えることができたイェリナが、ゆるゆると首を振る。顔には微笑みを張り付けて、けれど奥歯をきつく噛み締めていた。


 ほぼ一年間、病めるときも健やかなるときも支えてくれたイェリナの眼鏡。今はイザベラの手の中で折られて無惨な姿になっていることだろう。


 こうなることは、はじめからわかっていた。


 むしろ、こうなるようにイェリナ自ら誘導した節もある。

 だから覚悟は済んでいた。とうの昔に済んでいたのに、どうしようもなく苦しい。



 ——でも。でも、わたしの眼鏡様をセドリックが奪うよう指示したのだと勘違いをしたときよりも、辛くはないわ。



 あのとき感じた絶望が、今はない。胸は痛むけれど、凪いだ心に熱が戻ってきたのを感じる。手も膝も、もう震えていない。背筋はピンと伸びたまま。

 喪失の痛みよりも、セドリックが戻ってきてくれたことの方が嬉しくて嬉しくて、どうしようもなく嬉しくて仕方がなかった。



 ——セドリックがわたし以上に悲しんでくれているから……。わたしの心が報われる。



 凪いで止まっていた心が動きだす。感情があふれて形になる。

 イェリナの目からひと筋だけ、宝石のようなしずくがほろりと流れた。

 けれど、それだけ。イェリナは背筋を伸ばして顔を上げ、しっかりと前を向いている。



「セドリック……セオ、ありがとう。あのね、協力してくれる?」



 なにを、と言わずに協力を請うイェリナに、セドリックがあっさりと頷く。



「いいよ。僕がイェリナに協力しないわけがない」



 ふ、とセドリックが柔らかくてまあるい微笑みを見せた。幻覚眼鏡のレンズに阻まれていない黄緑色イエローグリーンライトの濡れた瞳が、イェリナを暖かく見つめている。



 ——大丈夫、大丈夫。もう、取りこぼさない。



 イェリナはセドリックからそっと離れると長椅子ソファへ向かう。そうして、イェリナの眼鏡を力任せに折ってしまったことを悔いて茫然としているイザベラの隣に腰を下ろした。


 そうして目に見えて震えているイザベラの手を、折られた眼鏡ごと包み込む。折れた眼鏡に思うことがないわけではないけれど、今は目の前のイザベラを優先する。そうしなければ、イェリナだって救われないのだ。



「イザベラ様。ご婚約者様に言いたいことがあるんでしょう?」



 イェリナはセドリックのように柔らかくまあるい声で問いかけた。



「だって……だってあの方は」



 問われたイザベラは、眼鏡を折ってしまった罪悪感と後ろめたさからか、年相応のどこにでもいる少女のように無防備な姿を晒している。

 そこにはもう、高圧的な態度も、高慢な微笑みも、吊り上がった鋭い目もなく、ただ意気消沈して項垂れるイザベラしかいない。



「イザベラ様がそう思われるのは、ご婚約者様が王太子殿下だからですか?」

「どうして気づいたの。誰も知らないのよ、あたくしの婚約者を。……リリィが教えたの?」

「いいえ。ティーガル伯爵令嬢様はなにもおっしゃっていません。わたしの問いに答えてくれただけ」


「そう。でも相手は王太子殿下なのよ。無理だってこと、わかるでしょう? ……あたくしからなにか申し上げることも……なにもかも」

「そんなわけないじゃないですか」



 弱音を吐き出すイザベラをイェリナはにこやかに斬り捨てた。



「……え?」

「そんなわけ、ないじゃないですか」



 キョトンとほうけた顔でイェリナを見つめるイザベラに、イェリナは穏やかな顔と声とで首を振る。縦へではなく、横へと。



「こういうときこそ賢く立ち振る舞うんです、イザベラ様。わたしはこう見えても一時は悪女を目指した女ですよ? 使えるものは誰でもなんでも使えばいいんです」



 意味がわからない、といった困惑気味の表情で首を傾げるイザベラ。その耳から、綺麗にまとめてあった白金色の髪がひと筋こぼれる。


 それを目にした瞬間、イェリナの頭の中に眼鏡様からの天啓を受けた。それは久し振りに感じる眼鏡への激情だった。

 堰き止められていた水が解放されて激流となるように、イェリナの心の中に眼鏡への愛と情熱とが戻って来たのだ。



 ——ひらめいた。イザベラ様は金属素材メタリック半下縁アンダーリムがお似合いだわ! あえてレンズの下半分に枠を作ることで美しい紫色の瞳を強調できるはず。眼鏡様の慰謝料として、イザベラ様にはわたしが作る眼鏡店の広告モデルになっていただくしかない!



 そうとなれば、イザベラはもう他人たにんではない。他人たにんでないなら、イェリナがイザベラを助けない理由なんてない。

 だからイェリナはここで切り札カードを切った。



「よろしいですか、イザベラ様。今からイザベラ様はわたしのお友達です」

「は?」



 イザベラが、これまで必死に積み上げて来たであろう淑女的な振る舞いを完全に捨てた瞬間をイェリナは見た。

 ぽかんと口を開けるだけでなく、器用にも頬が引きつっているイザベラに優しく微笑む。

 そうしてイェリナは、少し離れたところで待ってくれたセドリックに助力を請うた。



「セドリック、わたしのお友達が困っておられます。助けてください。……できますよね?」


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