第47話 未来へ踏み出すための眼鏡

 イェリナ・バーゼルは眼鏡によって生かされている。


 そう断言しても過言ではない。一時は物理眼鏡を奪われて、失意の底で嘆くことしか出来なかったけれど、それによって見えたものもある。


 セドリックやサラティアとの縁も、アドレーとの縁も。イザベラやリリィとの縁だって。

 すべて眼鏡様が繋いでくれた大事な縁だ。


 イェリナ・バーゼルは眼鏡のみで生きているのではない。と、彼ら彼女らがイェリナに気づかせてくれたのだ。

 だからイェリナが生まれる前の記憶と魂を持ってこの世界に生まれたのも、きっと意味のあること。眼鏡が繋いでくれた縁なのかもしれない。

 イェリナは、いまだにイザベラの手の中にある折れた眼鏡を気にかけながら、セドリックに念を押すように確かめた。



「セドリック、できますよね?」



 サラティアのように凛々しくもなく、イザベラのように美しくもないイェリナは、ただ可憐に微笑んだ。

 否定が返ってくるなんて疑ってもいない薄茶色の視線は、有無を言わさぬ力がある。けれど、そんなものがなくてもセドリックは頷いただろう。

 セドリックはイェリナに甘いけれど、イェリナの友人にも甘いのだ。



「イェリナ、君が望むなら命に変えても。必ずあの性根の腐った王太子殿下にマルタン嬢の言葉を届けよう」



 セドリックの麗しい声から、なにやら物騒な形容詞が聞こえたような気がしたけれど、イェリナは気にも止めなかった。



「ほら、無理じゃなくなりましたよ」

「マルタン嬢、すべての責は殿下にある。僕が……いや、カーライル大公家が責任を持って殿下を星祭りに連れ出そう」

「そん、な……。あ、あたくしの今までの時間と抵抗はなんだったの……」


「……イザベラ様は王太子妃教育なども受けていて、今まで完璧な淑女として生きてこられた侯爵令嬢様ですから。こんな変則的で裏技みたいなやり方はできなくても仕方がありませんよ」



 そうでなくても、もとよりイザベラは性根のよい令嬢なのだ。

 誰も彼もが忘れてしまって形骸化している学院アカデミーの方針を律儀に守ってしまう程度には。

 学生たちの前でイェリナを責め立てることを避けてしまうくらいには。そして、イェリナの大事な宝物の正体を確認することなく、布に包んだまま丁寧に扱ってしまう程度には。



 ——真面目なひとほど、ひとりで抱えて暴走するのよね。



 いまやイェリナは、難しい立場に置かれたイザベラの心情を理解し、同情していた。

 だからイェリナは胸を張る。茫然とすることしかできないイザベラに、田舎男爵令嬢らしくニコリと笑って力強く伝えた。



「イザベラ様、覚えておいてください。これが悪女が使うお友達特権です!」



 自分の力ではなく、セドリック任せ。

 いや、カーライル大公家の力と影響力を当てにした無茶振りだ。

 一度は諦めた悪女への道だったけれど、これぞ悪女というものだろう、とイェリナは自信満々に誇ってみせた。


 すると、だ。ほうけていたイザベラが、ふいに、クスリと笑い出した。力が抜けた細い肩がふるふると震えるほど笑うイザベラの目尻には、うっすら涙が滲んでいる。

 傷ひとつない指先で滲んだ目尻を拭ったイザベラは、宝石のような紫色の目で柔らかくイェリナを見つめて言った。



「あなた……そんなの悪女でもなんでもないわ」

「イェリナとお呼びください、イザベラ様。わたしでよければ、いつでも悪女の振る舞いをお教えしますよ」



 冗談めかして片目をつむるイェリナの姿に、イザベラはとうとう吹き出した。



「あなた……面白いのね。カーライル様がお心を寄せる理由がわかるわ」



 そう言うとイザベラは、強く握りしめていた眼鏡だったものをイェリナに向かって差し出した。



「……ごめんなさい、イェリナ。大切なものなのに……壊してしまったわね」



 差し出された眼鏡をイェリナは震える手指で受け取った。布に包まれていてもわかるほど、中の眼鏡はひしゃげて折れている。

 イェリナは深く深呼吸をした。二回、呼吸を繰り返し、眼鏡を包む布をそっと剥がしてゆく。



 ——大丈夫、大丈夫……はじめからこうなることは、覚悟していたでしょ、イェリナ。



 イェリナは自分を奮い立たせるように胸の内で呟いた。けれど、覚悟していたからといってショックが和らぐわけでもない。

 途中、何度もこのまま寮に戻って眼鏡様の墓でも作り、壊れた姿を見ないまま安らかに眠ってもらおうか、とさえ思った。

 そう思う一方で、眼鏡が負った傷を、被害状況を正確に把握しなければ、という強い信念のようなものもあった。



 ——ああ……わたしの、眼鏡さま……。



 そうして出てきた眼鏡は、ものの見事にブリッジが折れ、テンプルとレンズ枠リムを繋ぐヨロイも壊れていた。レンズに至ってはヒビが入り、あと少しでも衝撃を加えれば割れてこぼれそうであった。



「これは……酷いな。マルタン嬢、君、僕の見えないところでイェリナのメガネに八つ当たりでもしたの?」



 セドリックがイザベラを軽蔑するような冷たい眼差しで見た。

 イェリナの手の中に横たわる眼鏡の姿は、見るも無惨な姿をしている。

 折れて壊れたブリッジやヨロイだけじゃない。


 曲がり過ぎているモダン、円になれずに歪んだリム、ヒビの入った分厚いガラス製のレンズ。テンプルは波打っていてガタガタだ。

 だからセドリックがイザベラにきつく当たるのも理解できないことはない。ないのだけれど。



「待って、セドリック待って。いいんです、これは元からガタガタなんです! こういうものなんです! いえ、眼鏡はこんな不恰好なものではないんですけど、違うんです! ブリッジは折れていますし、ヨロイも壊れていますけど、元々不安定な出来栄えだったんです! ほんと、イザベラ様のせいでこうなったんじゃないんです! ないんですからね!?」



 真実はイェリナの自己申告通りで、もともと不恰好な眼鏡の不出来な部品パーツが負荷に耐えられずに折れただけである。


 けれど、セドリックもイザベラも、眼鏡を見たこともなく、イェリナが作った眼鏡がどのような出来栄えだったのかも知らないのだ。


 眼鏡を質に取っていたイザベラは、布の中身がなんなのか確認しない隠れお人好しでもあった。

 だからセドリックもイザベラも、イェリナが必死になっているのはイザベラを庇うためなのだと感動さえしている。



「イェリナ……君は優しいね」

「……イェリナ、あなたってひとは……」



 そんなふたりを説得することは諦めて、イェリナはようやく自分の元へと戻ってきた眼鏡との再会に集中する。

 だって、眼鏡が、眼鏡様が、ようやく手元に戻られたのだ。



「ああ、でも、粉々にならなくてよかったぁ……!」



 イェリナは心底安堵して、壊れた眼鏡を抱きしめた。抱いた衝撃でヒビ割れたレンズがお亡くなりになったような手応えを感じたけれど、気にはしなかった。

 否、ほんのちょっぴり胸に来たけれど、未来へ踏み出すための尊い犠牲であるのだから、と強引に自分を納得させた。



 ——粉砕魔法でも使われてフレームが粉々になっていたら、眼鏡の設計図を描き起こせないところだったわ!



 そう。イェリナは奪われた眼鏡をどうしても取り戻したかった。たとえ壊れていたとしても。

 壊れていたらいたで、設計図を描き起こすのに都合がいい。だからレンズが割れるくらい、どうってことない。



 ——これで……これで設計図を描き起こせれば、サラティア様経由で職人さんにお願いして眼鏡を量産できる……!?



 どのような形であれ、眼鏡が手元に戻ってきたイェリナは無敵に等しかった。全力全開でこれからの眼鏡開発について頭をフル回転させてゆく。



 ——ああっ、設計図ってどうやって描くの!? そ、そうだわ、セドリックにどの授業を受ければいいか聞いて……イザベラ様には眼鏡店を出店する際に出資していただいて……! や、やることが……やることが多い! でも楽しい!



 眼鏡によって結ばれた縁は、この先、イェリナに大量の眼鏡をもたらすであろう。


 そんな自覚をまだ持たないイェリナは、壊れた眼鏡を見て渋い顔をしているセドリックとイザベラにようやく気づいて正気に返った。

 ハッと息を呑み、慌てて首を振る。



「い、いいですかセドリック、それからイザベラ様も。このデコボコ眼鏡が真の眼鏡だと勘違いしないでくださいね!? 職人の手による眼鏡は美術品級に美しいんですから!」



 必死で弁明するイェリナの手の中で、割れたレンズが光を反射してキラリと光り輝いていた。







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