第34話 わたしは信じたい

 セドリックのことを思うと、落ち着かせたはずのイェリナの心が再度、騒めきだした。


 失った物理眼鏡ではなくて、もう寄り添うことのできない幻覚眼鏡でもなくて。

 セドリック・カーライルの存在そのものを惜しいと思ってしまっていることに、イェリナは気がついた。



「……セドリック」



 名前を囁いただけなのに、枯れたと思った涙がひょこりと顔を出しそうな気配がする。



 ——いけない、いけない。落ち着いて……慎重に……。



 イェリナは深く深く息を吐き出し、涙の気配を追いやった。


 眼鏡という概念からして存在しない世界に生まれた眼鏡を識る者として、イェリナは眼鏡のために生きてきた。


 生まれる前からして眼鏡が世界の中心だったのに。


 それでもイェリナは自分が宗旨替えしつつあることに驚かなかった。



 ——眼鏡のあるなしで信じられるかどうかを決めるなんて……そんなこと、決めてはいけないのに。前世はたまたま運がよかっただけで、眼鏡をかけていても悪いひとはいるのに。



 セドリックに出会い、話して語り、その人となりを知った。セドリックのおかげでサラティアと友人になれ、こうして今、助けてもらっている。


 イェリナが触れたのはセドリックのほんの一部だ。優しいセドリックしか知らないけれど、彼はイェリナを裏切るようなひとじゃない、と断言できる。



 ——でも。



 穴の空いたクローゼットがどうしても脳裏をよぎる。浮上しかけたイェリナの心は再び沈んだ。



「お嬢さん、泣くほどセドリックのことが好きなのか?」



 アドレーが、泣き出しそうな顔で拳を握るイェリナに言った。頬を触って確かめるまでもない。イェリナは首を横へと振った。



「……今は泣いていません」

「今は、ってことは、泣く予定がこれからもあるってことだろ?」

「違います、ありません」

「本当に? お嬢さん、俺の顔をまっすぐ見て言えないのに、本当にそうだと言えるのか?」



 うつむくイェリナにアドレーの厳しい声が飛ぶ。叱咤の激から守るようにサラティアがイェリナに寄り添い、手を握る。



「アドレー、貴方……傷心の淑女レディに少し手厳しいのではなくて?」

「……俺の顔は見れなくてもいい。せめて、サラティアの顔は見てやれないか」



 アドレーの言葉に、イェリナは雷に撃たれたような衝撃を感じて顔を上げた。


 いつの間にか心の内に閉じこもっていたイェリナは、自分以上に泣きそうな顔をしているサラティアと、ばつの悪そうな顔をして視線を逸らしているアドレー。イェリナを気遣うふたりの表情に気がついて、心がざわめいた。



 ——わたし……嘆いてばかりでなにも見ていなかった……。



 イェリナ・バーゼルはいつだって、前を向いていた。何度失敗を繰り返しても挑戦し、眼鏡がない世界で生きることを決して諦めなかったではないか。


 けれど、それでも、魂に刻み込まれた業がイェリナの心をさいなんでやまない。



「わたし……セドリックを信じられない……駄目なんです、信じたい気持ちはあるのに……」



 これはもう、理屈じゃない。理屈じゃないからあらがおうとすると涙が滲む。胸が軋んで悲鳴を上げる。


 イェリナは濡れた目元を自分の指で乱雑に拭った。それを見ていたサラティアが柔らかい声でイェリナに問う。



「ねえ、イェリナ様。貴女が見ていたカーライル様は、こんなことをする方なの?」

「……違う。セドリックはこんなこと……」



 イェリナが知るセドリックは、いつでも柔らかく微笑んでいた。ふところへ入れる他人は厳選していて、明確に線引きをしているようなひと。


 線の内側に入れた他人を警告なしに傷つけ裏切るようなことは、決してしない。



「他人の宝物を奪うようなことは、しない。しません」



 イェリナは柔らかく微笑む美しい青緑色の目を見つめて断言した。



「でしたらイェリナ様。貴女、寮の金庫に宝物メガネがあるって、カーライル様に、いつ、どこで教えたのです?」

「えっ。……え?」



 問われてはじめて気がついた。イェリナの頭が急速に回転し、セドリックとの出会いから昨夜の脱走未遂事件までの三日間を振り返り、息を呑む。



 ——教えて……いない!



 その結論に至った瞬間、頭の中に漂っていた霧が唐突に晴れたような爽快感を味わった。

 心臓がどきどきする。呼吸だって早くなる。イェリナは全身に血が通うような熱さを感じながら、サラティアを見つめた。



「少なくとも、イェリナの話を聞いただけではメガネなるものが存在していることはわからないし、金庫の話なんてしていないのではなくて?」



 ——話して……いない! いない、けれど。



「あ、あの……そういえば昨夜、アドレー様には話した……ような……?」



 イェリナがそう言った途端、サラティアの首がぐるん、と勢いよく回ってアドレーを見た。



「アドレー・ローズル侯爵子息!」

「ち、ちが……違うんだサラ!」

「言い訳無用! 本っ当に貴方というひとは!」



 サラティアが鬼のような形相で立ち上がり、アドレーに詰め寄った。

 勢いよく手を振り上げて、今にもその手をアドレーの頬へと叩き込みそうなところを、イェリナは慌てて止めに入る。



「サラティア様、落ち着いてください! 確かにアドレー様にはお話しましたが、それとこれとは関係がないのでは!?」

「イェリナ様はお人好しが過ぎますわ! この男がどのような男なのかは、わたくしがよく知っています!」

「サラ……お前、俺のことをそんなに……?」



 アドレーが場違いなのか勘違いなのか、乙女のように頬をぽっと赤らめた。



「黙りなさい、アドレー・ローズル! ……貴方がイザベラ様の派閥から抜けるために支払った代償を言いなさい。どうせイェリナ様の情報を売ったのでしょう? 貴方がわたくしやカーライル様のことを売るはずがないもの」

「そ、それは……」



 厳しく冷たいサラティアの声によって正気に戻ったアドレーが言い淀む。

 視線を床方向へと落として冷や汗をかくアドレーの姿に、イェリナは思わず横から口を挟んでしまった。



「あ、あのっ! アドレー様はセドリックやサラティア様が大好きすぎて過保護になっているだけなんです! セドリックに近づく田舎貴族で得体の知れない不穏分子ヤベー奴であるわたしを売るのは、なにも珍しいことではありません!」

「……イェリナ様、気力を取り戻されたことはなによりです。でもね、いいのよ。この男を庇いだてする必要はありません!」



 カッと目を見開き、背筋を伸ばし、凛とした態度を通り越して苛烈な様を見せるサラティア。アドレーだって震えている。

 けれどイェリナは怯むことなく、まっすぐサラティアを見た。



「アドレー様はサラティア様のことをお慕いしているのに?」



 そうじゃなかったら、アドレーがイェリナを牽制するわけがないのだ。すべてはサラティアを心配してのことだったのなら、辻褄が合う。


 けれどサラティアは、イェリナの言葉にニコリと笑った。笑って首を振ったのだ。縦ではなく、横へと。



「まさか。そんなこと、ありませんわ。家同士が決めた婚約者ですもの。政略結婚ですから、わたくしもアドレーも、思い合っているなんてことはありません。そうでしょ、アドレー?」

「……、…………ッ」



 サラティアの冷静な言葉にアドレーは同意しなかった。それどころか言葉を詰まらせて、どこか悲しげに目を伏せている。これにはサラティアも動揺したらしい。



「あ、アドレー……? そんな……貴方、少しもわたくしに優しくしてくれなかったじゃない! だ、たからわたくしは……わたくしは……政略結婚なのだから、冷たい婚約でも仕方がないのだ、と……」



 先程までの毅然とした態度はどこへやら。サラティアは急に目を泳がせて黙ってしまった。彼女の女神のような顔はのぼせたように赤く染まっている。

 そんな可愛らしい友人の姿を見たイェリナは、ほんの少しお節介を焼くことにした。

 これまでに記憶した貴族名鑑を思い出し、ローズル侯爵家とビフロス伯爵家の関係を言葉にして紡ぐ。



「失礼ですが、サラティア様。サラティア様とアドレー様の婚約を、冷たい婚約と割り切るのは早いかと。ローズル侯爵家とビフロス伯爵家は無理に政略結婚をしなくとも、もとより堅い絆で結ばれている間柄なのでは?」

「……えっ、……え? アドレー……どういうことなの」

「それは……言わなくてもわかれよ」



 ——……えっ。サラティア様はもしかして……ツンデレじゃなくて……天然お嬢様……? アドレー様は、まさかのツンデレ……?



 新たな気づきを得たイェリナは、友人の甘酸っぱい感情と動揺を浴びながら、なんとはなしにセドリックの姿を脳裏に思い浮かべていた。

 もう、涙の気配は感じなかった。








  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る