第33話 イェリナ・バーゼルは努力した

 眼鏡人でなければ顔と名前を覚えられない。信頼することもできない。


 そんな業が魂に刻まれたまま転生したイェリナは、けれどもイェリナなりに努力した。



「……ここは、異世界……なのよね」



 ある日、長い長い夢から覚めたイェリナは、鏡に映る自分の姿を見て呟いた。疑問形だったのは、鏡の中の自分が、薄茶色の目とどこででも見かける茶色の髪だったから。


 意識の底にある自分の顔とは別人の容姿を見ても、どうにも異世界転生者としての自覚を持てなかった。


 自覚ができたのは、この世界には眼鏡が存在しないのだ、と知ったとき。


 この世界に眼鏡がないのだと理解してしまったイェリナは、眼鏡の代わりとなる指標を異世界らしい髪の色や瞳の色に定めた。


 平民に近いバーゼル家が特別地味な色合いなだけで、貴族としての格と歴史が重いほど、特徴的な髪色や髪型、色とりどりの美しい目をしている者が多くなる。



「これなら……これならなんとかなるかもしれない!」



 と希望を胸に抱いたのは束の間で、特徴的な髪や目を持つ他人は、とにかく多かった。多くて多くて、多くて多すぎて、組み合わせが無限大すぎて、逆に覚えられなかったのだ。



 ——バリエーション豊かすぎ!



 イェリナは髪色や髪型、目の色で見分ける戦法を諦めた。



「……お父さま、貴族名鑑をお借りしたいのですが……」

「貴族名鑑? 面白いものを読むんだな。イェリナ、我らバーゼル家は滅多に王都に行かない。そんなもの、なんの役にも立たないと思うが……」

「あら、お父さま。貴族はなにも王都にだけいるわけじゃありませんわ。隣の領地の領主のお名前や、農作物の種の買いつけ先にも貴族の方々がおられるもの」



 そういうわけで次に目をつけたのは、貴族名鑑だ。


 貴族名鑑に記録されている貴族の名前と紋章を片っ端から覚えること。これはなかなかの手応えがあった。



 ——あの方は……剣と百合の徽章。ということは、バーゼル領と隣のランゼル領とを守護するグランゼール西方騎士団のアンブローズ騎士団長。向こうの方は……種籾と大樹の紋章。種子商会をまとめているハーマン伯爵家の方。



「……わかる、わかるわ……! 相変わらず顔と名前は一致しないけど、紋章か徽章さえあればどこの誰だか家名はわかる……!」



 領地にいた頃はそうやってしのぎ、眼鏡のために学院アカデミーへ進学して王都へとやってきてからは、学生名簿を暗記した。


 暗記した貴族名鑑とあわせて記憶した学生名簿は、イェリナの学院アカデミー生活を潤してくれるはず、だった。


しかし新たな壁が立ち塞がったのである。



「……嘘でしょ、制服に紋章・徽章って、つけないものなの!?」



 つけている他人たちはいるけれど、この先イェリナが関わることがないような高位貴族の限られた方たちだけ。


 だからイェリナは諦めた。他人の顔と名前をすべて覚えることを、諦めた。


 もとより学院アカデミーには眼鏡普及のための技術と戦略を学びに来たのだから、と。どの道、眼鏡がないのだから眼鏡人がいるわけもなく、それはつまり信頼に値するひとがいないのと同じである、と。


 魂に刻まれたノー眼鏡人への偏見と歪んだ記憶力をそのままに、挑戦と挫折を何度も繰り返し、眼鏡への愛だけを燃え上がらせて——そうしてイェリナはセドリックに出会った。


 眼鏡を想うイェリナを認めてくれる存在に。


 眼鏡を語るイェリナを微笑みながら聞いてくれる存在に。


 そして、イェリナはいつの間にか大切な存在になっていたセドリックへの想いと感謝を伝える前に——失ってしまったのだ。








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