第32話 メガネはペットか何かですか?

「信じられない……どうしてわたし、発狂せずにいられるの?」



 声なきまま涙を流すイェリナを乗せた馬車がたどり着いたのは、王都の貴族街にあるビフロス伯爵邸だ。


 その来客用応接室へと通されたイェリナは、埋もれるくらいふっかふかな長椅子ソファに腰掛けて震える両手を見つめながら呟いた。



「わ、わたしの眼鏡愛は……所詮、そこまでだった……ということ?」



 イェリナが自嘲的に呟く様を、正面の椅子に座ったアドレーが案ずるような眼差しで見守っている。イェリナの隣に座ってくれたサラティアもそうだ。


 不可解なものでも見るような視線が混じっているような気もしたけれど、まったく気になどならなかった。


 イェリナは、眼鏡を失ったというのに正気でいられる自分の神経の図太さに呆れることに忙しかったのだ。



「眼鏡……眼鏡様……わたしは……わたしは……」

「い、イェリナ様? あの……め、メガ……ネ、とは? なんですの、ペットかなにかですの?」



 震える声で震える指をジッと見つめながら呟き続けるイェリナに、とうとうサラティアが話しかけた。


 その途端、イェリナの薄茶色の目が大きく見開き、気遣わしげに両手を握ってくれていたサラティアの手を、逆に掴んで握りしめる。



「よくぞ聞いてくださいましたサラティア様! 眼鏡はですねフレームとレンズからなる視力矯正用の道具なんですでも視力の良い悪いにかかわらず眼鏡を使ってよくてその違いは実用眼鏡かファッション眼鏡かの違いでしかありません!」



 イェリナは身を乗り出してサラティアに眼鏡を訴え布教しはじめる。



「えっと……それは……ファッション製品? メガネはアクセサリーかなにかですの?」


「もちもんアクセサリーとして使うこともできます! レンズに色を入れれば強い陽射しや光から目を守る保護眼鏡の役割も果たすので趣味と実益を兼ねることも可能な素晴らしい道具です眼鏡は人類の叡智が生み出した至高の一品だと! 思って! います!」


「あ、あの……それは、魔法を使わずに、ですの? ……メガネは視力矯正のための道具でもあるのですのよね。目が悪くなったのなら、魔法で治せばいいと思うのだけれど……」

「わかりますその思いはわかりますけれど眼鏡は……眼鏡はそういう単純なものではないのです! 眼鏡は眼鏡です! ただそれだけで素晴らしい!」



 サラティアのほぼすべての疑問に息継ぎなしで答えたイェリナは、魂の根源から湧き起こる情動に突き動かされるように、喉を震わせ口を開いた。



「ああ……美しく洗練された姿形フォルム……様々な表情を見せる造形デザイン……着用者に寄り添う設計と素材……飾って並べても美しく、使って見せても魅了される……なんて罪作りな眼鏡様……っ!」



 うっとりと思い浮かべるのは前世の眼鏡ショップ、そして眼鏡をかけた友人知人たち。


 それから——幻覚眼鏡をかけて柔らかく微笑むセドリックの姿。



 ——……あっ。



 涙は馬車の中で流し尽くした、と思っていた。けれど、イェリナの双眸からボロリ、と大きな水粒がこぼれ頬を伝う。


 そうして再び震え出したイェリナの手を、サラティアの柔らかく暖かい手が包み込んだ。



「…………イェリナ様。学生寮でなにがあったのか、聞かせてくださいますわね?」

「……はい」



 涙を呑み込むように頷いたイェリナは、心配そうに様子を窺うサラティアと無言を貫くアドレーに、すべて話した。


 この世唯一の眼鏡を金庫ごと奪われたのだ、と。それを指示したのがセドリックらしい、ということを、包み隠さず話して聞かせた。



「……カーライル様、が……そんなことを?」

「お嬢さん……その、俺が言えた義理ではないが……セドリックを信じてやってくれないか」

「……わ、わた……わたし、も……し、信じることが……できたらよかったのに」



 ——もしセドリックが、幻覚眼鏡ではなくて物理眼鏡をしていたら信じられた……の、かな?



 眼鏡に盲目的だったイェリナの心に、ここではじめて疑念がしょうじた。


 イェリナが信じられず、認識してこなかった他人たちはノー眼鏡人ばかりだった、というのは事実ではなく、思い込みだったのではないか、と。


 なぜならイェリナは今。たった今、現在進行形でノー眼鏡人であるサラティアを信頼しているから。優しく寄り添って慰めようとしてくれる誠実さを受け取ってしまっているから。



「さ、サラティア様……っ、わたし……もう、どうしていいのかわからない……っ」



 ぐちゃぐちゃに絡まってしまった頭を抱え、縋るように甘えるようにサラティアの手を握る。


 イェリナの乱れた心を落ち着かせるように、何度も何度も撫でさすってくれるサラティアの手。


 その温もりがじわりじわりと染み込んで、イェリナの融通の聞かない凝り固まった思考を少しずつ溶かしてゆく。



「イェリナ様……貴女とカーライル様がわたくしのビフロス家の人間としての誇りを思い出させてくれたのよ。だから貴女も思い出して」



 嗚呼、とイェリナは声に出さずに嘆いて俯いた。

 イェリナは自分が転生者であるのだ、と自覚したばかりの頃を思い出していた。








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